還暦過ぎの750乗りだった年寄りの日記。

平成のおわりと、ほぼ時を同じくして定年を迎えました。愛機Z750Fourのこと、趣味のこと、日々の出来事や思い出話を徒然なるままに記していきます。

受験は運だ!

だから勉強なんかしないで神社めぐり、パワースポットめぐりをして、

毎朝夕念仏を唱え、部屋にはお札を貼り、学業成就の御守りをすべての持ち物に

ぶら下げなさい。

そうすれば憧れのあの学校に合格できます!

 

と、いう事ではなくて、

 

ある程度のレベルまで学力が達している受験生の運命を左右するのは

最後は運が関わっているのではないか、という事です。

 

就職して何年かたち、生徒の受験指導のために大学の過去問題を

何十年分か解いている中で明らかになったのは、大学入試問題では過去問題の

使いまわしをすることがよくある、という事です。

勿論、同じ大学の同じ学部の問題を使いまわすことはまずありません。

でも、同じ系統の学部でも他大学の過去問題を使う事なんて、ざらです。

 

私が受験は運だ(最後は運が関わっている)と考えるのは、

そういう事なんです。

 

私の経験をお話します。

すべて事実です。

 

現役時代の大学受験にすべて失敗した私は、高校の友人Kと

高田馬場にある某予備校に通っていました。

Kとは、小学校から同窓でなぜかウマが合いました。

 

そのKの家に浪人生活中の夏、遊びに行った時のことです。

Kの第一志望B大学法学部の赤本を目にした私は、それを見せてもらいました。

見せてもらったのは英語の問題です。

私は英語の勉強が嫌いで、当然成績もよくなかったので、B大学の看板学部の

英語の試験問題はどんなに難しいのだろう、というお気楽な好奇心からです。

 

ちなみに、私の第一志望だったA大学では、

入試が終わって校舎を出ると、その日の試験の模範解答と解説、予想得点を

予備校の教職員の方が無料で配っておりました(その仕組みは今日は省略)。

なので、受験終了後数十分で自分の合否が予想がつく、という

嬉しくも残酷な仕組みがありました。

A大学の入試には基準点というものがあり、英語が24点(50点満点)、

国語が22点(50点満点)に満たない受験生の答案は、

採点してくれないのです。

 

現役の時には、予備校の教職員が配っていた模範解答と予想配点を

大学近くの喫茶店で一服しながら(こらこら)確認して、浪人を覚悟しました。

英語が2点、基準点に満たなかったのです。

 

で、過去問題の話に戻ります。

Kの家でB大学法学部の英語の過去問題を見た私は

意外に簡単なのでビックリしました。

「この世界にテレビジョンというものが発明されたとき、

世の多くの大人たちは、当然この機械を見ることは

酒やたばこ、セックスと同じように子供たちには禁止されるだろうと

思っていた。しかし現実はそうならず...」

という文章でした。

五十年近く経っても内容の一部は鮮明に記憶に残っています。

 

ちょっと端折ります。

 

浪人時代はA大学の第一文学部、第二文学部、教育学部と、

とにかくA大学に入りたくて複数学部を受験したのですが、

第一文学部と教育学部は英語が原因で玉砕しました。

最後に残った第二文学部の試験も、国語と日本史は楽勝でした。

 

で、問題の英語です。

 

試験問題を見た私はわが目を疑いました。

夏休みにKの家で見たB大学法学部の英語の問題と同じ文章が

使われているじゃないですか。

 

試験が終わった直後の大学近くの喫茶店またも一服しながら(おい!)、

件の予備校作成の模範解答と予想問題で合格を確信しました。

 

合格発表の日、(若い人はもうご存じないであろう)掲示板に

自分の受験番号を見たときは「運がよかったなあ」と

しみじみ思ったものです。

 

結局私はB大学の文学部に進学したのですが、

B大学文学部の英語の問題はすべて選択問題。

マークカードなど無い時代ですから、

一センチ角のマス目の回答欄から、正解と思われる升を埋めていくという

今では考えられない試験形式でした。

 

自分で説いた問題は多分三割程度。

あとは、解答用紙のマス目がきれいな模様になるように

適当に埋めて試験会場を後にしました。

なぜか結果は合格。

 

夢に見るほど行きたかった(本当に夢を見たことがあります)

A大学ですが、結局B大学に進学しました。

留年したことも五十年もたてばいい思い出です。

 

結局私は運の良さでしか大学に合格できなかったのだと思えて仕方ありません。

 

実力を蓄えた上に運の良さが、大学入試の結果を

左右するのではないかと思いつつ、

まだ結果が出ていない長女の大学入試に決着がつくまでは

オートバイ断ちをしようと考えている馬鹿な親でした。

 

 

 

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昔むかあし...

今から四十年近く昔の話です。

 

これを読んでくださっている多くの皆さんが生まれるか生まれないかの頃のお話です。

そうでもない!

とか、

自分が生まれる数(十)年前だ‼

とか、いろんな声はあるでしょうが、

それはさておき。

 

一年浪人して入学した大学で一年留年し、

一年就職浪人していたころ、私の意識の向かう先は就職することと、

オートバイのことでした。

 

21歳の夏、車で北海道を旅した私はその旅がきっかけで

オートバイにのめりこむようになったのでした。

 

いろいろ紆余曲折の末(そうでもなかった)、大型自動二輪免許を手に入れ、

就職したら、YAMAHAのXS650Spを手に入れようと考えていたのでした。

それがどこでどう間違ったのか、KAWASAKIのZ750FFOURを買ってしまったのです。

いいオートバイでした。

スタイルも音も、(当時にしてみれば)パワーも、価格も(車検が二年ついて

29万円也)。

北は北海道から南は四国までいろんなところを走りました。

 

ただ、(当時の免許制度も関係していましたが)世間的には人気がなく、

横浜の丸富オートさんの某販売店のガレージの奥の方に埃をかぶっていたのです。

「車検2年つけるから29万で持ってってよ」という店員さんの言葉は

四十年経っても忘れられません。

 

結局手放してしまったZ750FOUR初号機に代わり、

今は色違いのZ750FOUR弐号機に乗っているわけですが、

その初号機の納車の日が2月18日だった、というあまり意味のない

暇つぶしの記事でございました。

 

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この二枚しか写真がないのですが、納車の日です。 


 

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どれも使いまわしの写真で、すみません。

ちなみに、ここは横浜です。

納車の前日は数十年ぶりとかの大雪でした。

帰宅したらエンジンもマフラーも下回りも、泥だらけでした。

 

多分今のZ750FOUR弐号機が最後までお付き合いすることになる

大型二輪だと思います。

 

つまらないつぶやきにお付き合いいただき、ありがとうございました。

もう少し暖かくなり、コロナの感染状況が好転したらどこかに走りに行きたいなあ...

 

 

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この時期、プチ失業状態です

二月も中旬。、私立大学の入学試験も一つ目の峠を越えた感じです。

ウチの長女も結構ハードなスケジュールをこなしておりました。

 

が、長女の話ではなく、私の話です。

この七月から始まった予備校講師の仕事ですが、

一月をもってほとんどの生徒が卒業(私の再就職先の予備校では卒業と言ってます。

しかし、要するにもう受験だから予備校はこれでやめます、ということ)しました。

「今までお世話になりました」と言って去っていく生徒を見送るのは

寂しいものです。

 

誰もが自分の夢を実現してほしいと祈るだけです。

 

そして私は週一時間しか授業がない、という

プチ失業状態です。

 

ところで、全くレベルの低い話で申し訳ないです。

 私は千葉県内三つの教室に出講していたのですが、

そのうち、千葉。

校舎につく前にお茶を飲みながら一服して、頭の中を整理することのできる

こんなお店。

 

 

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店内にて

 

 すみません、写真は使いまわしです。

 

piroji1616.hatenablog.com

 ここが、千葉に行くときの一休みポイントでした。

 

次がこれ。

 

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看板通り、柏二丁目酒場です

柏の校舎に出たと帰りに、何回か立ち寄りました。

もつ煮ともつ焼きがおいしい、立ち飲みのお店です。

店内の飾りつけは昭和のホーロー看板。

これは店外ですが、ほかにも

こんな看板が。

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錆がいい感じです

店内には由美かおるさんと水原弘さんのキンチョールのホーロー看板やらなにやら。

ちょっと店内の写真は撮る雰囲気ではなかったので、写真はありません。

 

なぜかホンダが販売していたオートバイ(昭和五十年代ね、当然)の一覧のポスターがあったりして、完全に昭和にタイムスリップできます。

 

ここで、日本酒を二合と、もつ煮、レバ串、ポテトサラダなどをいただくのが、

柏に行った時の楽しみでした。

 

そんなこんなで、何とか半年の間無事に勤め上げました。

 

また、千葉や柏のお店を開拓したいし、

今年度もささやかながら仕事が継続してくれるといいなあ、

自分が担当した生徒が皆夢を果たせますように、

と思う今日この頃でした。

 

 

 

 

 

 

 

十八代中村勘三郎さん

この記事(初稿)を書いている2月8日のNHK鶴瓶の家族に乾杯SP」を見ていたところ

故五代目中村勘九郎(十八代勘三郎)さんが出演していらっしゃるじゃないですか!

ビックリしましたねえ!

 

私、この方好きでした。

最初に拝見したのは映画「風林火山」での勝頼様役。

史実とは全く違いますが、四回目の川中島の合戦の際に

初陣を飾る勝頼様役という、撮影当時十二、三歳くらいの勘三郎さんが

初々しかったのを覚えています。ちなみに主人公山本勘助役は

三船敏郎さん。信玄公は萬屋錦之助さん(あとは覚えてません)。

 

次に拝見したのが1988年の大河ドラマ武田信玄」での

今川義元役。

義元様が本当に公家面をした武将だったのかはわかりませんが、

もし、そうだったとしたら、鉄漿をして蹴鞠に興ずる義元様役は

ものすごいはまり役でした。また、

 

中井貴一さん演ずる武田信玄公、

杉良太郎さん演ずる北条氏康様、

そして勘三郎さん演ずる今川義元様。

 

この三人が一堂に会した「相駿甲三国同盟」締結の場面の

シーンは思わず吹き出すようなユーモアあふれるものでした。

 

どんな場所であれ、戦国大名が直接顔をあわせるなど

あり得ない(というかあってはならない)ことなのでしょうが、

この三人の俳優さんが、信玄公、氏康様、義元様を演じ、

会見の場(多分駿河の国)から見える富士を眺めて

義元様「駿河から見る富士は、すべて見えて、美しいだろう」

信玄公「しかしこれは、尻丸出しですな」

氏康様「…(確かに)」

と、語り合い義元様が悔しそうにしていたシーン、

そして田楽狭間。

信長めに不意を打たれ無念の死を遂げたシーン。

 

どれもが脳裏(とBD)に焼き付いています。

逝去の報を聞いたとき「なんで?早すぎるじゃん」と思ったのですが、

それも詮方ない事。

 

ただこうしてお元気だった生前のお姿をテレビ番組で拝見し、

脳裏にしまってあるお姿を思い出すだけで、いいのかなと思って

いる私であります。

 

あの番組で共演し、今日の放映に臨まれた鶴瓶師匠はきっと

かなりつらくていらっしゃっただろうなあと思いつつ、

酔っぱらいの年寄りの戯言も、いい加減にしろよ!と思う

私でありました。

 

改めて、十八代中村勘三郎さんのご冥福をお祈りいたします。

 

 

麒麟が来る 最終回

NHK大河ドラマ麒麟が来る」の最終回が放映されました。

 

私、信長は嫌いです。

そもそも我が先祖(○○氏)はずっと山梨に住んでおり、武田信虎様、信玄公、

そして勝頼様に仕える地侍だったのです(中には旗本まで出世した者もいたらしい)。

「祖霊ましますこの山河」を踏みにじった信長に親近感を持てるはずもありません。

武田家、織田家滅亡の後、家康めに下った我が〇〇氏一族もいたようですが、

私の家系はそれを潔しとせず、土とともに生きる(つまりただの農民になる)道を

選んだようです。

 

ウチの家系の話は、ここではこのくらいでさておきます。

 

で、本能寺の変の話です。

 

私が中学校三年生の時、NHK大河ドラマでは「国盗り物語」(原作司馬遼太郎氏)を放映していました。

この作品は平幹二郎さん演ずる斎藤道三の台頭から

寺尾聡さん演ずる、家康が天下を統一するまでを描いたものだったと思うのですが、「本能寺の変」の回、五十年近く経っても忘れられないシーンがあります。

 

本能寺の変の直前、近藤正臣さん演ずる明智光秀がどこかの連歌の会で回でこんな歌を

詠むのです。

「時(土岐との掛詞。光秀は土岐源氏の出身だったという前提あり)は今

雨が下(天下のこと)しる(雨が降るの「しる」と「治める」の掛詞)

五月哉」

要するに、「土岐氏である自分が天下を納める五月よ」という意思表示です。

はっきりと「信長めを討つ」と言っているわけです。

勿論、この句の意味が分かる人にしか光秀の真意はわかりません。

光秀が詠んだ歌の表の意味をなぞり、

「ああ、この季節(五月末です)に相応しい五月雨を詠んだ歌だな」と思っている時に

同席した里村紹巴(著名な連歌師。演じたのは西村晃さん、二代目黄門様です)は

光秀の真意に気づきます。

そこで詠んだのが

「花落つる流れの末をせき止めて(この句はあまり詳しく知りません。

要するに「やめておけよ」っていう歌)」でした。

 

その前後の良い結果が出るまで三回おみくじを引く

近藤正臣さん演ずる光秀の鬼気迫る演技も含めて、未だに忘れ得ません。

その後の本能寺での戦闘シーンがかすむほど印象が強かったのです

高橋英樹さん、松坂慶子さん、ごめんなさい)。

このシーンは、私が現役のころ、「連歌」の説明をするとき

必ず使っていたものであります。

 

そのシーンがなかった今年の大河が残念だと思った、ということで

締めくくりましょう。

 

 

 

 

 

 

 

古い友人の話

今から半世紀昔の話です。

 

横浜市立瀬谷中学校2年生だった私は、

何がきっかけだったのかは忘れてしまいましたが、

放送委員会なるものに所属していました。

主な仕事は、お昼(ごはん)の時の放送。

このお昼の放送というのは、

放送室にある古びたレコード(クラシック音楽ばっかりでした)の中から

適当なレコードを選んで昼食時のBGMとして全校に流すこと、先生方からの連絡事項を

アナウンスすることでした。

主な仕事その二。

校内で放送機器が必要な時に、マイクなどをセットすること。

これは毎月の全校集会、年に一度の体育大会、文化祭、生徒総会などの

結構大事なイベントが多かったように思います。

中一、中二と放送委員を務め、中三の前期に副放送委員長になりました。

その時に委員長だったTとは相性が良く、私が後期の放送委員長になったときは

Tが副委員長を務めてくれて、一年間コンビで委員会を引っ張ってきました。

中学を卒業した後Tに会ったのは二回だけ。

放送委員としては相性が良く、一緒に楽しく仕事をしてきたのですが、

個人的な付き合いはなかったのですから当然と言えば当然です。

高校への通学途中に、偶然相鉄線の中で二度会っただけで、

それ以降は五十年近く顔を見てはいません。

その時の会話で、「高校を卒業したらNHKに就職したい」とTが言った言葉は

今も覚えています。

「大学はいかないのか?」と尋ねた私に「すぐ現場に出たいから」と

Tは答えました。

たしかそれがTの顔を見た最後の時の会話でした。

 

それから数十年。

ある年のNHK大河ドラマのスタッフロールを眺めるともなく眺めていた私は、

その照明スタッフにTの名前を発見したのです。

「いつ音から光に変わったんだろう」と、驚くと同時に

Tが自分自身の夢を果たしたことを知ってとても嬉しかったことを覚えています。

 

それからもNHKのスタッフの一人として着実に仕事をしているであろうことは

いろんな番組のスタッフロールにTの名前を見ることができたことで

確信しています。

放送だけでなく、あるNHKスペシャルの特集が単行本になっているのですが、

たまたま買ったその単行本にもスタッフの一人としてTの名が印刷されていたのです。

 

時は流れて平成が終わり、私は定年退職をしました。

令和元年、Tの名前を見ることはなくなりました。

私と同級ですから、Tも退職したのだろうと思っていたら、

また、最近になってTの名を見るようになったのです。

先日の某番組のスタッフロールにTの名を見て

「まだ頑張ってるんだ」と思うと同時に、

仕事が楽しいんだろうなあ、と羨ましくも思う私でした。

 

愚にもつかない独り言に最後までお付き合いくださって

ありがとうございました。

 

 

 

ムーンライトながら

が廃止になったというニュースが流れたのは、

先週のことだったでしょうか。

 

私は鉄オタと言えるほど知識も経験もなく、

ただの電車好きだと思っているのでありますが、

この列車には何回か乗ったことがあります。

 

といっても、「ムーンライトながら」という洒落た名前の

列車ではなく、その前身と言われている東京発大垣行きの

「345M」という快速列車に、ですが。

この「345M」、「大垣夜行」という名で呼ばれていのたらしいですが、

ただ「安く関西方面に行きたい」という理由だけでこの列車に目を付けた

私にはそんな知識はありませんでした。

 

たまたま手元に残っていた昔の時刻表(1982年7月日本交通公社発行)によれば、

東海道本線下り大垣行き、東京駅発23時25分発(終電一本前)。

東海道線の終電は23時55分小田原行きです。

東京を出て神奈川県に向かう列車と言えば

東海道線横須賀線、あるいは京浜東北線なのですが、

近距離の方々は京浜東北線を利用していたと思います。

が、川崎より遠くに向かう場合は大抵、東海道本線

横須賀線で、下っていくのが普通だったと思います。

 

さて、詳しく書いていけばキリがないのでこのくらいにして、

話を先に進めます。

 

大学3,4年当時は東京都心に通っていた私は、

帰宅するときには東京駅発の東海道線横須賀線を利用して

横浜まで、そこからは相鉄線で瀬谷まで帰っておりました。

 ...?なに瀬谷をご存じない!?

じゃ、これ読んでください。

 

piroji1616.hatenablog.com

  

 

そんな私が羨ましく思っていたのが東海道線下りのボックスシート

ワンカップとか缶ビールなどをあおっているサラリーマンの方々でした。

当時(1980年代)の東海道線横須賀線と言えば

ボックスシートが当たり前。113系だか115系だかの車両が中心に走っておりました。

私が数回利用した345M(東京発大垣行き)も、同じ車両を使っていました。

 

大手町なり、神田なり、お茶の水なりで一杯やってきたサラリーマン諸氏が

終電一本前の東海道線に乗り、更に車内で一杯やっていれば気持ちよく揺れる

車内で爆睡するのは当たり前。

東京から保土ヶ谷、戸塚、藤沢へ帰る予定が、気が付いたら名古屋、大垣だった

というのは当時よく聞いたお話です。

 

ああ、話が横道にそれ続けている。

 

大垣行きの345Mの旅に話を戻しましょう。

最初に乗ったのは高校三年生の秋、

小峰元さんの「ピタゴラス豆畑に死す」を読み、

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同時期にNHKの「火の路(原作松本清張)」を観て、どうしても奈良・桜井に

行ってみたくなり、学校をさぼって(こら!)奈良から大阪への旅を

目論んだ時です。

まあ、その旅でも記すべきことは多々あるのですが、

ここではさておきましょう。

東京駅を23時25分に出た345M大垣行列車は、横浜を23時54分に発車します。

 

 当時の国鉄車内で煙草を吸うのはあたりまえ。

何といってもボックスシートの真ん中の車窓下には

こんな灰皿が備えられていたのです。

 

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この写真はあけぼの号のものですが、

 

  

 が、しかし、さすがの中距離通勤列車とは言え、首都圏内走行中は禁煙。

勿論高校三年生の私には禁煙区間など全く関係はございません

(ウソついてるし!)。

それは置いといて、東海道線平塚駅中央本線大月駅を境にして、

喫煙可能な区間になるのです。

大垣行きの夜行に乗っていると、だいぶ車内の乗客が減った平塚を過ぎると、

ボックスのあちらこちらから煙が立ち上ります。

 

そして小田原を過ぎると各駅に泊まるのをやめ、快速列車らしくなります。

たしか静岡で駅弁を買い、二回目の晩御飯を済ませ、さすがにおやすみなさいです。

狭いボックスシート、当然リクライニングなんぞしません。

かたいシートにもたれ、それでも車輪が刻む規則正しいレールの継ぎ目を拾う音、

車体の揺れに身を任せていると、アルコール無しでも(またウソついてます)眠りの

世界に引き込まれます。

目が覚めると朝六時ころ、名古屋駅でした。

初めてこの列車に乗車した高校生の時は、名古屋駅きしめんを食し

近鉄に乗り換えたのですが、

その後のことは覚えていません。終点大垣まで行ったことは確かです。

話が逸れまくり、書きたいことが何だったのか訳が分からなくなりましたが、

こういう昭和の鉄道が消えていくのはさみしいものです。

SR400もファイナルエディションが出るという事で、

本当に「昭和は遠くなりにけり」だなあ、という事で

まとめておきましょう。