還暦過ぎの750乗り。そんなに忙しくない、趣味に溺れたい々。

平成のおわりと、ほぼ時を同じくして定年を迎えました。愛機Z750Fourのこと、趣味のこと、日々の出来事や思い出話を徒然なるままに記していきます。

皆さま、暖かいお返事心からお礼申し上げます

前回の記事に色々の皆さんから

 

piroji1616.hatenablog.com

 

コメントをいただき、あれこれ考えました。

 

その内容はさておいて、

一人一人コメントにお返事したかったのですが、

左手の指が自由に動かない今、これを書くのも一苦労なんです。

 

なので、本日仕事中にいただいたコメントに、

この場を借りて深く御礼申し上げる次第でございます。

 

本当にありがとうございました。

 

病気のことその4(これは焼き直しではありません)

今ごろ6年も前の脳梗塞で入院したことを記事にしてどうするんじゃって感じですが

実はひと月ほど前の日曜日、朝(ウソ。昼前)に目を覚ました時感じたのです。

左手が変でした。

 

握ることはできます。

オートバイでいえば、クラッチは握れるといえばわかるでしょうか。

 

イメージとしては、握ったクラッチレバーを思うようにリリースできない

ということです。

微妙な半クラッチ操作(開放するほう)ができないのです。

つまり、開くことができないのです。

ウインカーを操作する左親指も意のままに動きません。

 

元来能天気な私ですから

「まあ十日もすれば治るんだろう」と思っていたのです。

が、七日八日、いえ、ひと月経った日、久しぶりにZのカバーを外し

エンジンをかけてまたがりました。

サイドスタンドで立っているZのギアは当然ニュートラルです。

確かにクラッチは握れます。

でも、半クラッチはできるかと言えば自信はありません。

左手が自由にできない、というのはマニュアルミッションを持つ

オートバイ乗りにとっては致命的な障害です。

 

病院に行けよって感じですが、最近脳神経外科が開いていて私の仕事がない

水に限っていろんな予定が入り、時間が自由になりません。

それで主治医への相談を後回しにしている私なのですが、

次の水曜日(私、水曜日と日曜日には仕事を入れていないのです)には

必ず病院に行きます(薬も切れそうなので)。

その結果、治癒しないのであればZは降りざるを得ません。

M3を手放し、Zも手放したら残りの人生の楽しみが半分以上失われたことに

なるのですがすべてが、身から出た錆でございます。

 

 

 

 

 

(焼き直しの)病気のことその3

さて、十日間の入院生活のスタートです。

 

毎朝、食事前に検温と血圧測定。そして投薬と点滴。

投薬と点滴は、血栓を溶かし、血管を広げ、血圧を下げるためのものでした。

 

五日後にはリハビリが始まるのですが、それまでは

ひたすら食べて寝て、の生活が続きました。

御多分に漏れず、テレビを見たり、窓の外を眺めたり、という

日々でした。

 

ああ、あの頃に「なつぞら」放映していれば、

入院の徒然もずいぶん慰められたろうになあ、

というのは、勝手な感想。

 

私の症状を見ながら、医師を中心に、

きちんとチーム医療のプログラムがたてられていたようです。

 

五日の入院と静養の結果、血圧も低下し、

まず、理学療法(昔は物療とも呼ばれていたらしいbyデジタル大辞泉)です。

このリハビリは、「身体に障害のある人に対し、運動療法・マッサージなどにより、リハビリテーションとして行う治療」(デジタル大辞泉による)で、

入院後も身体的な障害を自覚できなかった自分には、

「いらないんじゃない?」と思っていたのですが、

今にして思えば、あの時のリハビリのおかげで、(身体的に)普通に

生活できているのかもしれません。

手すりと手すりの間を歩いたり、手足をマッサージしてもらったり、

というプログラムがメインでした。

 

もう一つのリハビリは「作業療法」です。

このリハビリは(デジタル大辞泉には)、

「病気の回復や社会復帰の促進を図る精神療法」とあります。

作業療法士さんが話した一つのストーリーを、どこまで理解していて、

どこまで再現できるか、というような内容でした。

 

実は、前の記事で記した、脳梗塞で入院した同僚ですが、

入院してから少し「?」というところが顔を出していたのです。

今でも忘れられないのは、

「今日の17時までに必ずこの書類を仕上げること」という指示を

出していたにもかかわらず、書類が上がってこない。

というか、全館放送をかけても反応がない。

 

そこで携帯に電話すると、

「今日はどこそこの○○で、××の特売をやっているので、

車で向かっている」という返事。

「例の書類は?」という問いかけにも「ああ。」というだけ。

「すまないけれど、今すぐ職場に戻って、仕上げて。」

といって職場に呼び戻し、書類を作らせた、ということがあったことです。

 

これ以外にも、似たようなポカが多く、私も上司への説明に困ったことが

何度かありました。

 

作業療法士さんに、この話をすると、

作業療法というのは、そうならないためのリハビリである」旨の

返事をもらいました。

そして、「今のあなたの様子を見ていると、全然心配はないから。」

というありがたいお返事。

なによりホッとしました。

 

午前中は、点滴と静養、午後はリハビリ、という十日間の生活が終わり、

無事退院の日を迎えたのでした。

 

そのころには、病院の向かいにあるマンションの、例の車のフロントマスクも

一つに見えるようになっていました。

退院の日のMRI検査の結果、

「左脳幹の一部の梗塞は治癒していない。」とのこと。

右手に少なからず後遺症が残るでしょう、と言われたのですが、

その後遺症は具体的には、右手のしびれ、右手の温感の異常(寒いのに暑く感じたり、暑いのに寒く感じたり)というものでした。

                          続きます

 

 

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(焼き直しの)病気のことその2

さて、急遽入院が決まり、家内や子供たちはかなり動揺していましたが、

自分は割と平静でした。

 

というのは、

私の父は、入院当時の私より何年か若くして、会社で勤務中に脳梗塞を発症。

救急車で川崎市内(当時父は、川崎の浅田にある運送会社に勤務していた)の

病院に搬送され、入院、右半身がほぼマヒ状態になってしまい、

その後二回目の脳梗塞で(最初の発症からは二十年以上経っていましたが、)

他界しているのです。

 

そんな経験から、「自分の梗塞は軽い。しかも早期に発見できた」という

変な自信から、まるで深刻に考えていませんでした。

 

というか、たばこ好き、酒好き、平均睡眠時間5時間。血圧超高め(勤務先の春季の検診ではいつも上が180)。発症しないわけがないといつも思っていたし、勤務先の同僚が脳梗塞を発症したときには、彼の退院後、前兆を聞きまくり、

参考にもしていたからです。

なので、前日のTV番組で言及されていた前兆通りの前兆がいくつも現れたとき

(特に対向車が2台に見えたとき)には、

「っしゃ。来た。」という感じでした。

 

前述の同僚も、自身の運転で病院へ行き、入院したという経歴を持っています。

私も自分で運転して病院まで来て、「MRI検査が終わったころ、迎えに来てね。」

と妻に言って車で帰ってもらっていたのです。

まあ、入院が決定してから、家内にパジャマを買ってきてもらい、ついでにバターロールパンを一袋差し入れてもらい、10日間の入院が始まったのです。

 

その晩(といっても18時ころ)の療養食は

・カレイの煮つけ

・ほうれんそうのお浸し

おかゆ

 

って感じでした。

いや、まずくなかったです。正直、以前食べた病院の食事の数倍おいしかった。

でも、何より量が少なかった。

それで前述のバターロールパンの差し入れになったのですが、

実は、これはいけない。

 

後で知ったのですが、私の食事は高血圧症対応の、減塩食だったのです。 

それを知ったのは、退院して数か月経ってからでした。

当時の私は、「あそこのパンがおいしい。」「ここのパンはまずい。」などと

わがまま放題。

それでも入院当日、病院の向かい側にあるマンションの駐車場に止まっていた

ある車のフロントマスクが、「まだ二つに見える。」ということを

気にする余裕を持ちつつ、減塩食を処方されているにもかかわらず、

パンを所望していたのでした。

            

               続きます。

 

 

 

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(焼き直しですが、)病気のこと

2015年8月18日(火)、いつもの床屋さんで、顔をあたってもらっているとき、

右目の下にカミソリが当たった瞬間、「ピリッ」という感触がありました。

直感的に「なんか変。」と思いました。

 

帰宅して晩御飯を食べつつ、テレビを見ているとき、

「右手が変。」…いえ、「変」としか言えないのです。

丁度その晩見ていたテレビの内容「脳梗塞の前兆」に

なんか、二つとも合致するのです。

林先生の番組だったかな。

 

翌朝、出勤時、ウチを出て5分ほど後、

対向車が二台に見えたのです。

でも、すれ違うと、一台でした。

 

職場で、ネットを漁りまくりました(こら!仕事せいよ)。

脳梗塞の前兆」。

 

対向車が二台に見えたのが決定打でした。

この日に診察している、自宅近くの脳神経外科を調べ、

定時で退勤。

自宅で着替えて、病院に直行。

これまでの経緯を説明したら、すぐにMRI検査。

結果は、左脳幹に軽度の梗塞あり、でした。

即入院、点滴で170を超えたを血圧を下げつつ、

血液の粘度を下げ、梗塞部分の血栓を溶かし始めました。

 

                   続きます。

 

 

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一つの時代が終わりました最終回

さて、すったもんだ(全然すっても揉んでもおりません。すみませんでした)

の挙句手に入れたBMW320Iスポーツバージョンですが、それはそれは素晴らしい

車でした。

 

あ、そうそう。最初はダイヤモンドブラックを注文しようと思っていたのですが、

ディーラーの地下車庫にあったドルフィンメタリックを一目見て急遽予定変更。

ドルフィンメタリックを注文しました。それはそれでまた後に続くのですが。

 

さて、色の話しはさておきBMWの六気筒をシルキーシックスと称することがありますが、私の実感ではそんな感じはしませんでした。

たしかに気持ちよく回る六気筒であることに間違いはありません。

ですが上に行くとやはり苦しそうです(徳大寺御大によればキャタライザのせいらしいです)。おまけに、レブカウンター(タコメータ)がレッドゾーンを越えると

リミッターがかかり、エンジンがストールしたように息をつくのです。

エンジンは、さほどではないなと思いつつも、気持よく切れるステアリングと

コーナーで粘る腰の強さ、ロールの少なさ、ブレーキの強靭さ、つまり

トータルバランスの良さは本当に特筆ものでした。

 

そして高速道で140キロくらいで(おい!速度違反!)流すときの心地よさは

言葉にできないものがありました。

 

とある夜中、第三京浜下りを走っていたのですが、

前を走るFC(グーグル先生、お願いします)の後に追随して150キロくらいで

走っていたら、FCは数分しないうちに走行車線速度に戻りました。

緊張感に耐え切れなかったのでは、と今は思います。

私の320は何事もなかったかのように、そして

私自身も本当にリラックスしてその速度で追い越し車線を走り続けたのでした

(速度違反+走行区分違反ですよね。お巡りさん、ごめんなさい)。

ただのSOHC6気筒の車でロータリーエンジン搭載のマツダ渾身作のスポーティーカーに

ついて行ける。

 

徳大寺御大がよく仰っていらっしゃいました。

アウトバーンを走る車と日本車では設計思想が根本から違うのだ」と。本当ですね。

短時間で力を出し切るか、そこそこの力で長時間走るか、という違いなのでしょうか。

私の弟など、320のエンジンを見てびっくりしておりました。

曰く「BMWってただのSOHCなの!?」と。

何の変哲もない直列六気筒SOHCエンジン搭載車ではありますが、大したクルマ

だったのだなあ、と今は思います。

 

また、この6気筒エンジンがアイドリングで発する身震い(というか振動)の

心地よかったこと。

 

ちなみに件のセールス氏が

「100キロを超えるとBMWの静けさがわかりますよ」と言っていたのは

きっと例のキンコンがならないという事なのでしょう(知らない人は100㌔キンコンで

グーグル先生に聞いてください)。

 

 

...…

あまり詳しく書いていると、キリがありません。

BMWの話はもう少し自分の気持ちが落ち着いたらボチボチ書いていくことに

しましょう。

 

結論として。

私は先日多分最後の愛車となるであろうBMWE36M3Cクーペを手放しました。

1988年製、エストリルブルーの車でした。

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サヨナラ

 

...…

私にとっては3台目のBMWでした。

 

この車、平成30年の終わり頃にABSの故障で警告灯が点灯。

 

修理して車検を通すのに必要なパーツを揃えられず検切れのまま駐車場で

冬眠したまま、今年、令和3年の5月に売られていきました。

 

私はもう二度と四輪車を買うことはないでしょう。

まして現在の訳の分からない(ポリシーも何もない)BMWに乗ることは

決してないでしょう。

フライバイワイヤ(やディーゼルのまどろっこしい)の、ただの記号に堕してしまったBMW車なんぞ、くれると言われても貰いません

(誰もあげるなんて言わないから安心しな)。

 

思えば最初のBMW320を手にいれた9か月後に平成が始まり

平成の終わりに車検が切れたこのM3Cまで、私の自動車遍歴は平成の30年間を

BMWと駆け抜けたことになります。

 

本当に素晴らしいクルマでした。

記号論でいうのではなく、実際運転して30万キロ以上をともにしてきた私が

心の底から思います。

 

車検制度の無い国に輸出されるそうですが、

まだまだ走れるはずです。

その国で誰かがS50B32エンジンをぶん回してくれればいいなあと思います。

 

またそのうち、気持が落ち着いたら

BMWの昔話をしたいと思います。

 

 

 

 

 

 

一つの時代が終わりました2

BMWに一度試乗してほれ込んでしまった私は、6気筒MTのBMW車を

手に入れる算段を頭の中で始めました。一番のネックはお金ですがそれは後ほど。

 

タイミングというのは恐ろしいものです。

 

私が敬愛していた徳大寺有恒御大著「間違いだらけの車選び1987(1988だったかも)」に、BMWMT車についてのコメントがあったのです。

要約すると

「コンパクトかつパワフル。素晴らしいクルマだ。」

「ようやくバイエルンBMWのBです)にも日本のファンの声が届き始めたようだ。

6気筒のBMWが日本にも入り始めた。バイエルン製の6気筒エンジンをMTで味わう。

これぞ至福。」

 

というようなことです。

敬愛する徳大寺御大がBMW320のMTには大賛辞を送っているのです。

 

時を同じくして月刊ドライバー誌にも6気筒MTのBMW車の試乗記が

載ったのです。やはりべた褒めでした。

 

単純な私はもう購入に向けて頭のすべてが加速していました。

 

加えて金銭の問題を解決した「タイミングの恐ろしさ」です

(さっきは「さておき」ましたが)。

 

一つめ。

私の埼玉県への出向が決まりました。

出向手当は今では信じられない額です。

おまけに、住居費も全額出向先が持ってくれると。

 

経済的なネックはなくなりました。

 

二つめ。

朝の出勤途中にジェミニが追突されたのです。

渋滞している出勤途中に、前車に追随して止まった私は、

ルームミラーを見て不安に思いました。

後続車の女性ドライバーは助手席の友達らしき女性と楽しげに会話しながら

横を向いて笑っているのです。

「集中して運転しろよな!」という私の不安は次の赤信号で的中しました。

 

ものすごい衝撃とともに私のジェミニは追突され

(ブレーキとアクセルを間違ったんじゃないの、というくらいでした)

リヤのトランクはぺちゃんこでした。

大げさではなく、文字通りぺちゃんこです。

トランクがなくなっていました。

 

当時いすゞは斜陽真っ盛り(というのも変ですが)、

全国からディーラーが撤退を始めていました。

 

千葉県地方も例外ではなく、修理の見積もりを出してもらえる

ディーラーはもうありませんでした。

 

必然的に足を運んでいたBMWの正規ディーラーにお世話になりました。

 

「修理の見積もりが出ましたよ」というBMW正規ディーラーのセールス氏の

電話に応えてディーラーに行くと、

 

修理の見積もりと一緒に新車の見積もりを書いているじゃあないですか!

 

付き合ってくれた(というか86レビンで送ってくれた)アラシさんは、

 

「ここまで来たらハンコ押しちゃいなよ!ジェミニが潰れて修理費(頭金の手助け)

を出してくれたのは

これまでの恩返しだよ」と気軽にいいます。

アラシさんは気軽にいったけれど、気軽にハンコを押したのは私です。

 

その日から数日後、私は、6気筒MTの

BMWE30MTスポーツバージョンの契約書にハンコを押していたのです。

 

数日間続きます。