還暦過ぎの750乗りだった年寄りの日記。

平成のおわりと、ほぼ時を同じくして定年を迎えました。愛機Z750Fourのこと、趣味のこと、日々の出来事や思い出話を徒然なるままに記していきます。

一月も中旬

大騒ぎしていた新テスト(共通テスト)も終わりました。

お金があって、地理的にも恵まれた受験生が有利になる

英語の外部模試の導入は見送り

絶対採点なんか不可能に決まっている国語の記述式テスト導入も見送り

それはよかったと思います。

まあ、政治家先生としては、慌てて英語の外部模試を受ける高校生が増え、

業界からの帳簿に乗らない献金(当選祝いとか、政治活動への応援と言い換えることもできます→ただし、常識的にはそれでは×が付きます)が増えたでしょうから

当初の目的は半分以上達成できましたよね。

 

新テストに話を戻しましょう。

個人的な感想ですが、今年のこのテストはブレの範囲であって

結局もとのセンター試験と似た型式に落ち着いていくと思います。

 自分の専門分野からしか確たることは言えませんが、

何も変わっておりません。

再就職先で私の授業を受けていた生徒は、ほぼ満点がとれたようです。

 

それはさておき、かわいそうなのは受験生でした。

あれこれ振り回され、中途半端なテストをうけさせられ、

生れた時を恨む受験生も多いと思います。

 

長女もそんな一人だと思います。

新型コロナの所為で楽しみにしていた高校三年生の学校行事は

ほぼすべて中止。

大学入試も二転三転する中での共通テスト受験。

いろいろつらいことの多い一年だったと思います。

 

ところで、

長女が大学受験、次女が高校受験と、二つの受験期が重なった

わが家でございます。

長女は、二月から始まる私大及び、国立大学二次試験に向け、

まだ絶賛予備校通い中。

次女は、第二志望以下の私立高校受験中。

第一志望(じゃない気がするが)の県立高校受験に向け、

まだ絶賛塾通い中。

 

受験生が一人いるだけで大変なのに、二人もいるなんて!

と同情して下さったあなたへ。

 

実は楽なんです。

これが来年も繰り返されるより、

今年一年頑張って二人片が付く(結果はどうあれ)方が

ずっと楽なんです。

 

 

少なくともこれでわが家ではあと二年間は受験と無縁な

生活が送れます。

 

と、ここまで書いて(二日ほど)一休みしているうちに、

次女の高校受験の結果が二つ出ました。

親子ともに第三、第四希望としている高校ではありますが、

「この高校なら行ってもいい」と思える高校に合格できたのは

 喜ばしいことです。

 

 まだ第一志望の県立高校、第二志望の私立高校(このへん、もしかしたら

私の認識が逆かも)の受験が残っているので、気は抜けません。

 

親としては当初の第一志望であった県立高校に行ってほしいのですが、

この学校、ウチからは割と遠いんです。

佐倉市から東武線のK駅まで行くには、約一時間。

私の再就職先の予備校も、そこに校舎があり、週一度通っているのですが、

東武線の本数が割と少なく結構大変です。

最初は第二志望と言っていた私立高校は、やはり佐倉市からは遠い。

佐倉方面から津田沼に出て、千葉方面に乗り換え。

 

まあ、本人が行きたい高校に行くのが一番良いという事は

長年の教員生活の経験から十分に理解しているつもりですが、

せめて県立高校は隣町のS高校か、乗り換えなし、駅近のF高校を

志望してくれればよかったのになあ、と思っております。

 

そんなこんなでオートバイに乗ってふらふらしているのもバツが悪く、

今年は触ってもおりません。

 

皆さんの記事を読んで気持ちだけでもツーリングをしている気分に浸りつつ、

今夜の晩御飯は何にしようかと考えている私でありました。

 

 

 

 

すこし落ち着いてきました

久しぶりの更新ですが、前回「公私ともに」バタバタして、と書いたのは、

こういう事です。

 

公。

千葉県内の予備校で7月から働き始めた私ですが、12月から1月にかけて、

受験産業はかき入れ時です。

その底辺にいる私にも80分なんぼの仕事が次から次へと舞い込んできて、

その準備やら何やらでかなりの時間を取られておりました。

願うことは私が関わったすべての生徒が夢をかなえてくれることです。

 

私。

1月2日、ウチのWi-Fiルータ

(家に来ているCATVのケーブルから家中に電波を飛ばす器械)からの

電波が来なくなったのです。

ルーターのインターネットとの接続を示すランプは消灯したまま。

寿命か、と考えた私は正月にもかかわらず直近の家電量販店へ。

 

ありがたい事に、そこは元旦から営業しており無事に新しいルーター

手に入れたのですが、新品のWi-Fiルーターと入れ替えても状況は変わりません。

そこで、契約しているCATV会社に電話をすると、まだ三が日だというのに

翌三日に配線の点検に来て下さったのです。

屋内の配線と信号ブースターやケーブルのソケット等一通り新品に変えて頂き、

一旦インターネットは復旧しました。

が、その夜、また不通に。

翌月曜日、私はその日から仕事。

在宅勤務中の家内に対応してもらい、屋外ケーブルの交換と室内の配線の再度の点検を

 していただきました。

しかし、それでもだめ。

CATV会社の無線ルーターを借り、とりあえずしのいでおりました。

まあ、いろいろすったもんだあったのですが、結論から言えば、

光回線を入れることでやっと解決したのでした。

 

新年早々皆様にいただいたコメントのお返事もできず、

大変失礼申し上げました。

おくればせながら、これを読んでくださっている皆様の

今年一年のご多幸をお祈り申し上げます。

 

 

バーチャル帰省

 

さて、何気なくつけたテレビ番組の中で

私の実家がある瀬谷が映っており、

御年80歳になられる紺野さんとおっしゃる方が

瀬谷から静岡まで遠距離通勤をしている。

 

しかもその紺野さんが駅からご自宅へ向かう道は、

私が小学校から大学まで使っていた道だ、という所までが前回の記事でした

(念のため書き加えておきます。この坂を上らないと、瀬谷小学校、瀬谷中学校、

そして瀬谷駅まではたどり着けない、かなり急な心臓破りの坂道なのです)。

 

「この町は坂が多く、上り下りが多い」というナレーションが入りましたが、

この心臓破りの坂を下りて再び上るのは、私の実家のある相沢地区方面へ向かう

坂道しかありません。

 

「ますます近いじゃん」と思いながら見ていると、場面は相沢さんのご自宅へ。

周りは暗く、どこなのかはわかりません。

相沢さんを迎えた奥さんが握り寿司(このお寿司がカギ!)

を出し、紺野さんはまたもビールを召し上がりながら

二人で夕食を召し上がっていらっしゃいます。

 

さて、場面は変わり翌朝です。

 

紺野さんへのインタビューが明るい光の下紺野さんのお宅の前で繰り広げられて

おりました。

その向こうに見えるのは、時代遅れの南欧風の青い瓦と白い壁、アルミの雨戸、

そして、なにも止まっていないガレージ...…

 

「あれ、ウチじゃん!」

 

そうです。紺野さんのお宅は私の実家と、市道を挟んだお向かいさんだったのです。

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ここが私の実家です

このZ750FOUR初号機のタンクのKAWASAKIという文字が正面に見える方向から

テレビのカメラが紺野さんのインタビューをしていたのです。

この写真にはガレージに昭和53年式いすゞジェミニ1600LSセダンがとまっていますが、

今は弟も二俣川に住み、私も千葉県人。

当然ガレージには基本的に何も停まっていません。

三十数年前に横浜を離れた私は、当然紺野さんを存じ上げません。

その当時は紺野さんのお宅にはKawasakiZ400Ltdに乗る若者とそのご家族が

住んでいました。

 

慌てて実家に電話をしたのは、この番組が次のコーナーに移ってからでした。

 

要領を得ない母親(多少ぼけています)に一から説明をして、理解させるのに数分。

そして、その後母親(というより老母。確か次の四月で90歳。)から、

紺野さんのお話をいろいろ聞きました。

そして、紺野さんご夫妻が召し上がっていたお寿司は、ロケ隊のために

紺野さんの奥さんが出前を頼んだもの、

十人分頼んだら余ったので、ウチの老母がおすそ分けをいただいたこと、

紺野さんのご主人は本当にお酒が好きで、

先日は瀬谷駅北口の横浜銀行前で…

 

などという話を聞き、電話を切ったものでした。

そんなこんなで、期せずしてテレビ朝日の画面上で

バーチャル帰省をすることができ、ちょっと嬉しかった

私です。

 

つまらねえはなしだなあ、という感想は私も一緒でございます。

でも、読んでくださった皆さん、

今年もよろしくお願いいたします。

 

 

 

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寒中お見舞い申し上げます

この愚にもつかない駄ブログを読んでくださるすべての皆様の

今年一年のご多幸をお祈り申し上げますとともに、

相変わらぬご愛顧のほどをお願い申し上げます。

 

さて、コロナに振り回された昨年一年でしたが、

今年はどんな年になるのでしょうか。

 

昨年末に「2020年の振り返り」の記事を書こうと思っていたのですが、

生来の怠け者故、くじけてしまっておりました。

十二月末から一月頭にかけて、次女が高校受験のための冬期講習。

特に十二月三十一日から一月二日までは「地獄の特訓」という

スペシャルイベントがあり、親も文字通り暮れも正月もありません。

長女(大学受験生)も次女と同じスケジュールを組んで塾に通っています。

 

家内は早朝から朝食の準備と昼食用の弁当作り、昼には夕食用の弁当作りと

夕方にはお届け、と、受験生中心の生活を送っています。

私はと言えばそんな状況の中でオートバイに乗って遊んでいるような勇気はなく、

家でおとなしく大掃除の真似事などをしておりました。

 

山梨県で下宿生活を送る長男は何度か「帰省したい」と言っていましたが、

私と家内はコロナ禍の中東京を通過して帰宅するのは危険だと考え、

受験を控えた娘たちからも「今年は勘弁してほしい」という声が上がり、

結局山梨で年を越してもらうことにしました。

 

かわいそうという声も上がったのですが、ご本人は

「(本人曰く優しい)彼女(三つくらい歳上らしい)」ができたらしく、

彼女といるほうを選んでくれました。

 

私は例年、一度は帰省し母と弟に会っているのですが、今年は

万が一のことを考えて帰省は中止しました。

息子に「帰省するな」と言っておきながら自分が東京都を越えて横浜市

西のはずれまで帰省するというのは、「会食は控えて」と言いながら

十五人集まって高級ステーキを召し上がっていらっしゃる、どこぞの国の宰相のように

無責任極まりない話なので、私も自重することに。

(そこで、実家の親に会いに行くのであって、帰省ではない。などと言わないのが

良識ある大人。えっへん。)

あ、新年早々義憤、公憤で脱線してしまいました。

 

家内の実家からはかなり早い時点で帰省禁止命令が来ており、

必然的に我が家はみんなステイホーム(ステイ塾)でこの年末年始を過ごすことに。

 

そんな元旦、娘たちは朝から塾。

家内はすでに新年の仕事を開始(@自宅二階の仕事部屋)、

私は自分と家内の分の所得税申告に向けた書類づくり。

珍しく朝から酒の一滴もない正月を迎えております。

で、夕方。

 

何気なくテレビをつけ、テレビ東京の「所さんのそこんトコロ」を

見るともなく見つつ書類整理をしておりました。

この番組のあるコーナーで、私の耳が一瞬でダンボに!

 

何でも80歳の高齢の方が静岡県の御殿場の方から遠距離通勤をしていらっしゃるという

内容で、途中までは「ほうほう、それでどこまでお帰りかな?」程度だったのですが、

件のご老人が小田急線を海老名で降りた、という所で耳がダンボだけでなく

目も画面にくぎ付け。書類整理はいったん休止状態に。

なぜなら、海老名というのは小田急線の停車駅のひとつであり、相鉄本線の西の起点

でもあるからです。

この、相鉄線というのは私の実家のある瀬谷を通過する路線なのです。

高校、浪人、大学時代は毎日のように利用しておりました。

 

脱線ついでに。

大学時代、瀬谷駅で横浜行の電車を待っていると、

よく下りホームに「伊藤かずえ」さんが立っているのを目にしたものです。

 

その、瀬谷駅がちらっとでも映るかなあ、などと思いながら

テレビに夢中になっていたのですが、なんと、このご老人(以下、紺野さんという

本名にします。テレビで放映しているんだから個人情報でも何でもないでしょう)、

瀬谷で下車しました。

 

まあ、瀬谷で下車したといっても、瀬谷も広うござんす。

私が子供のころ、瀬谷区ができ、その後泉区瀬谷区の二つに分割されるほど

昔は広かった。

 

紺野さんは瀬谷の多分北口の改札を出て私の記憶にはない居酒屋へ。

居酒屋でビールをあけ、夜の坂道を下っている画像が目に入りました。

瀬谷駅を出てすぐの下り坂というのは二つしかありません。

一つは瀬谷小学校前から相沢川に向かう坂道、

もう一つはかの山口百恵さんが半世紀以上昔に住んでいた

アパート(これも相沢川沿いです)方面に向かう、

私の実家に向かう坂道。

紺野さんが下りていたのは後者の坂道でした。

小学校時代に山口百恵さんとお友達だった(→これは桂Y子の自己申告による。

Y子のことだから絶対いじめていたに違いない)桂Y子の家の前を

下っていきます。

暗い画面の中でも、桂Y子の家とそのお隣の平本M典の家は

明らかにわかります。

へえ、ウチに近づいているなあ、と思ったのですが、

すでに日は落ち、紺野さんがご自宅についたときには

もうそこがどこなのかはわかりません。

...…ところが...…

            続きます。

 

 

 

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Z750FOUR(弐号機)納車から7年(その4)。

やっと最終回です。

 

弐号機納車の日(もう夜だ!)、B3ジャケットと新しいグローブ、オーバーパンツ、

シールドの曇り止めなどのおかげで、冬の夜の寒さをものともせず

埼玉の山奥から千葉まで(こけることもなく)帰ってきました。

走り馴れた国道16号、見慣れたコンビニ。

 

家につく前にちょっと一服。のつもりで寄ったコンビニで、その日最後の事件が起こりました。

 

オートバイにまたがり、キーを差し込んでスイッチオン。

あれ?インジケーターランプがつかない。

ニュートラルのグリーンも、ブレーキの赤も。

 

ご存じの方もいらっしゃるかもしれません。

750RS、900Super4のインジケーターランプはメーターの下に横並び。

Z系になってからはメーターの間に縦並び(私はZ系の縦の方が機能的だと

思っています)。

 

そのランプが点灯しないのです。

メカ音痴の私でも「バッテリー上がった?」くらいはわかります。

でもキックがついています。

が、三回、四回とキックしてもウンともスンとも言いません。

コンビニにつくまでは、快調でした。

ライトももちろんついていました。ウインカーも普通に点灯していた。

 

初号機では、こんな時よく押しがけをしたものです。

でも、何十年ぶりかで乗った大型二輪車で押しがけをする体力も自信もありません。

で、コンビニの先を左折すると緩やかな下り坂があることを思い出して、

そこまで弐号機を押していきました。

坂道を下りながら押しがけ(の真似事)をしましたが、やはりだめです。

 

ふと思い出したのは初号機のことです。

ダイナモが壊れ、バッテリーの残量だけで東京から帰ってきた時のことです。

 

ダイナモが壊れていたというのは、後日モトランドカジカワさんで聞いたのですが、

その時は、首都高環状線から京葉道路に入ったころから次第にエンジンの

ふけあがりが悪くなり、ヘッドライトを消すと(京葉道路は明るかったので、ライトを消しても何とか走れました)、エンジンの調子が戻るのです。

 

だましだまし京葉道路船橋料金所にたどり着きました。

が、料金を払い終わるとエンジンがストール。

その後は何度キックしてもかかりませんでした。

 

料金所の職員さんの詰め所前にZを止めさせてもらって、船橋料金所下の国道14号

タクシーを拾い、自宅へ帰ったのですが、その時のことを思い出したのです。

 

「あの時と同じかも」

じゃあお手上げだ…

 

家までバイクで15分の距離(しかもアップダウンつき)を押して帰る?

 

いいえ、そんなことは致しません(できません)。

初号機時代と違い、今は、JAF二輪車に対応してくれます。

JAFに電話して、二輪対応救援車の救援を頼みます。

 

待つこと数十分、来てくれたJAF提携のレッカー会社の社員さんとZを車に積み、

お話をしながら自宅へ向かうと、なんとこの方、私がお世話になるのは4回目。

M3C初号機で2回(一回目はVANOSが壊れてオイルを吹き、走行不能

二回目はラジエターのアッパーパイプが壊れて冷却水がなくなり走行不能

ちなみに、この故障が原因で廃車...)。

M3C弐号機で1回(燃ポンが壊れてガソリンを吹き走行不能。)の計三回、

そして今日がめでたく(ない)四回目と相成ったのでした。

お互いに再会を喜び(んではいない)つつ

なんとか自宅にたどり着いたのでありました。

 

納車されたZとともに颯爽と自宅に乗り付けるという夢は破れましたが、

何はともあれ無事自宅までZ(と自分)を送り届け、Z750Four弐号機とは

この日から新たな相棒として共に歩むことになったわけです。

 

あとで調べたら弐号機が納車時に積んでいたバッテリーはリチウムイオン式のもので、

これは突然死するらしいです。

当然すぐバッテリーを買いに行ったことは言うまでもありません。

 

 あれから七年(今2020年12月13日)、そろそろ三個目のバッテリー購入の時期です。

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(弐号機)納車から7年(Z750FOURその3)。

さて、焼き直しの「納車のこと」続きです。

 

電車の中で思い出したこと。

オーバーパンツ、買ってないじゃん

 

どうしよう。すでに日は傾き、(電車の外は)寒そう。

慌ててスマホさんに、「クワドリオート」さん近くにホームセンターが

あるか、尋ねてみました。

 

ありません。

 

ダメじゃん。12月の寒空の中、Gパン一枚で走れるはずないじゃん。

 

坂戸駅(懐かしいなあ、川越に住んでいたころ、同僚が住んでた)を降り、

タクシーの中で考えました。

「どうしよう。」

でも、答えは簡単に出ました。「クワドリオート」さんで売ってるだろう。

予想通り、売ってました。

 

厚めのオーバーパンツを買い、店長さんの話を聞き、

二十年ぶりでオートバイにまたがります。

 

でかい。重い。

こんなの乗って千葉まで帰れるの?

っつうか、店のガレージから出せるの?

こけたら起こせるの?

 

寒さと緊張と二十年ぶりにZにまたがった嬉しさで、

震えながら国道343号へ。

「動かせた!」なんとかZを動かせました。

が、無理はせず、クルマの流れに乗って東へ。

太陽はとっくに沈み、あたりは真っ暗です。この3桁国道には、

ろくに街灯もありません。

ヘッドライトの明かりを頼りに走り、最初の右カーブ。

「おっと!」

車体を傾けて曲がるっていう事を忘れていたのか、

危なくガードレールと接触するところでした。

 

Z初号機で初めて公道を走った時のように慎重に操縦しつつ

最初のスタンドでとりあえず満タンにします。

国道はいつのまにか248号になっています。

「クワドリオート」の店長さんに聞いた、

「とにかく店の前をまっすぐ行って突き当りの丁字路で右折。

更にまっすぐ行けば関越道のインターにぶつかるから。」という言葉を頼りに

走り続けます。

 

突き当りました、丁字路。

「ここで右折っと。」国道407号でした。

 

ずいぶん車通りも街灯の数も増え、明るくなってきました。

さらに南下を続けると見覚えのある掲示

「西入間署」。警察です。

 

川越に住んでいた1998年、買っていた犬(雑種。名は平吉)が脱走し、

この警察署に保護されていたのを家内と迎えに来たことを思い出しました。

 

じゃあもう川越だ。インターに入ればあとはしばらく高速だからちょっと楽かも。

 

そんなことを考えつつ鶴ヶ島インター(そうだ、川越インターまで行くより楽じゃん)

から関越自動車道に乗ります。

あとは走り馴れた千葉への道です。

ああ、道がわからない、という緊張はなくなりました。

三芳のパーキングエリアでは、一服する余裕も出て、

更に外環道へ。

 

おとなしく車の流れに乗って走行車線を走ります。

 

で、荒川を越えるあたりで今更のように気づきました。

「このジャケットとグローブ、全然寒さを感じない!

 このヘルメット、中でため息ついても全然シールドが曇らない!!」と。

 

〇輪館の店員さんが言ってたのは、本当でした。

寒い中、息を吐いてもシールドは曇らない。

この二十年の進歩にびっくりしました。

そして、グローブが温かい。

勿論、電熱ではありません。

でも、指先が全然冷たくならないんです。

軍手の上に革のグローブをつけ、それでも指先が冷え切り、

信号待ちのたびにエンジンに手を当てて温めていたころとは

本当に大違いです。

ジャケットも暖かいです。

首筋や手首、胸元、背中に侵入しようとする冷気を完璧に遮断し、

体温を逃がしません。

さすが高高度を飛ぶ飛行機乗りたちのために作られたフライトジャケット。

「クワドリオート」さんで購入したオーバーパンツもあったかい。

 

本当に寒さ知らずで荒川にかかる高架橋を越えていきます。

多分外気温は0℃以下でしょう。

 

だんだん昔の感覚が蘇り、気分が高揚していきます。

気持ちよく外環、常磐道を走り、柏インターで下道(国道16号)へ。

いつもの16号線の某交差点で左折(右折すると元の職場)。

さあ、あと十分かかるか、かからないかだ。

と、コンビニの駐車場にZを止め、エンジンを切り、一服。

 

ちょっと休んで、さあ、帰ろうとした時…

あれれ?

 

時間は20時を回っています。ああ、なかなか帰れないなあ。

                  (続きます)

 

 

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