安全は、すべての人の願い
なのはいうまでもないことですが…
「若者の車離れ」という現実があるそうです。
還暦過ぎの年寄りには想像もつきません。
私が免許を取ったばかりの頃は、まだファミレスもでき始めたばかり。
コンビニもほとんどなかった。
郊外型のファストフード店も。
なので、高校時代の友人たちと集まるときには、
みんな車で(ほとんどが家庭所有のいわゆる「ウチの車」でしたが)、
誰それの家に集合!っていう感じでした。
ネットもない、携帯もない時代、有線電話で連絡を取り合い、
誰かの家に集合すると、何台かの車に分乗して夜のドライブに行ったものでした。
横浜西部に住んでいた私、S介、K野、H林の家に集合すると、
横浜市中央部に住んでいたM伸の家に集合した時は、
車を止めても、何をするわけでもない、
高校時代の思い出話、大学生活の話、まあ、俗にいう「無駄話」というやつです。
そんなことをして夜を過ごすのが無性に楽しかったし、
皆自分の運転技術を上げようと、情報交換、切磋琢磨などをしていたものです。
そんなふうに「車」が生活の中に入り込み始めたころ、
その事故は起こりました。
S本(中学まで同窓だった。高校は全く違う所に進学したので、付き合いはなかった)が運転する車が事故を起こし、同乗していたI原が死んだというのです。
I原は、小学校四年から中学二年か三年ころまで同級でした(高校は全く違うところ
だったので、中学卒業以来、付き合いはありませんでした)。
たまたまI原の妹が当時中学生だった私の弟と中学の同級生だったので、
情報が入ったのだと思います(これは違うかも、ですが、本題とは関係ないので、
これ以上は触れません)。
通夜の夜、中学校(横浜市立瀬谷中学校)でI原の担任だった先生方は、
皆、駆けつけてくださいました。
特に中一の時の担任だった粕谷先生は
「正ちゃん(I原のこと)は、優しくて本当にいい子だったよね」と
私に話しかけてくださいました。
小学校(横浜市立瀬谷小学校)の先生方(先生と呼ぶのも腹が立つ)は、
誰も来ません。
I原が四年から六年まで三年間担任を持った
𠮷原由比子先生は、本葬の時も顔を出しませんでした。
それって、どうなの?と思いますが、今日の話題とは話が違うので、ここで
やめておきますが…
本題に戻りましょう。
通夜の夜、居間に寝かされたI原の遺体の前で、I原のおばあちゃんが、S本に
「正一(I原のこと)を返せ!」と叫んでいたことを
この記事のまとめとしましょう。
車の中で彼女と楽しい時を過ごすのも、
友人と一緒に歌を歌うのも、
道交法では禁止されていません(ですよね)。
でも、運転に集中せずに悲劇を起こしたあなたは、
「○○を返せ!」というご親族の叫びに何と答えますか?
何の話じゃい?と思う方は
からお読みください。