還暦過ぎの750乗りだった年寄りの日記。

平成のおわりと、ほぼ時を同じくして定年を迎えました。愛機Z750Fourのこと、趣味のこと、日々の出来事や思い出話を徒然なるままに記していきます。

安全は、すべての人の願い

なのはいうまでもないことですが…

 

「若者の車離れ」という現実があるそうです。

還暦過ぎの年寄りには想像もつきません。

私が免許を取ったばかりの頃は、まだファミレスもでき始めたばかり。

                 コンビニもほとんどなかった。

                 郊外型のファストフード店も。

なので、高校時代の友人たちと集まるときには、

みんな車で(ほとんどが家庭所有のいわゆる「ウチの車」でしたが)、

誰それの家に集合!っていう感じでした。

 

ネットもない、携帯もない時代、有線電話で連絡を取り合い、

誰かの家に集合すると、何台かの車に分乗して夜のドライブに行ったものでした。

 

横浜西部に住んでいた私、S介、K野、H林の家に集合すると、

行く先は大抵、相模川のもぐり橋か、江ノ島

横浜市中央部に住んでいたM伸の家に集合した時は、

港の見える丘公園山下公園、大桟橋などでした。

 

車を止めても、何をするわけでもない、

高校時代の思い出話、大学生活の話、まあ、俗にいう「無駄話」というやつです。

そんなことをして夜を過ごすのが無性に楽しかったし、

皆自分の運転技術を上げようと、情報交換、切磋琢磨などをしていたものです。

 

そんなふうに「車」が生活の中に入り込み始めたころ、

その事故は起こりました。

 

S本(中学まで同窓だった。高校は全く違う所に進学したので、付き合いはなかった)が運転する車が事故を起こし、同乗していたI原が死んだというのです。

I原は、小学校四年から中学二年か三年ころまで同級でした(高校は全く違うところ

だったので、中学卒業以来、付き合いはありませんでした)。

たまたまI原の妹が当時中学生だった私の弟と中学の同級生だったので、

情報が入ったのだと思います(これは違うかも、ですが、本題とは関係ないので、

これ以上は触れません)。

 

通夜の夜、中学校(横浜市立瀬谷中学校)でI原の担任だった先生方は、

皆、駆けつけてくださいました。

特に中一の時の担任だった粕谷先生は

「正ちゃん(I原のこと)は、優しくて本当にいい子だったよね」と

私に話しかけてくださいました。

 

小学校(横浜市立瀬谷小学校)の先生方(先生と呼ぶのも腹が立つ)は、

誰も来ません。

I原が四年から六年まで三年間担任を持った

𠮷原由比子先生は、本葬の時も顔を出しませんでした。

 

それって、どうなの?と思いますが、今日の話題とは話が違うので、ここで

やめておきますが…

 

 本題に戻りましょう。

通夜の夜、居間に寝かされたI原の遺体の前で、I原のおばあちゃんが、S本に

「正一(I原のこと)を返せ!」と叫んでいたことを

この記事のまとめとしましょう。

 

車の中で彼女と楽しい時を過ごすのも、

    友人と一緒に歌を歌うのも、

  道交法では禁止されていません(ですよね)。

でも、運転に集中せずに悲劇を起こしたあなたは、

「○○を返せ!」というご親族の叫びに何と答えますか?

 

何の話じゃい?と思う方は

 

piroji1616.hatenablog.com

からお読みください。

 

 

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