ナナハンへの道(弐 限定解除のこと)
こりずに焼き直しでございます。
さて前回、限定解除試験を『あの「悪魔の試験」』といいました。
私の住んでいた横浜の西のはずれの町では二俣川試験場で受験をするのですが、
「二俣川で合格したら一目置かれる」ほどという噂が流れるほど、
そこは難しいという噂。合格率6%という噂。
試験官は基本的に落とす(不合格にする)というスタンスで試験を実施しているという噂。
直線での加速が遅いと
「そんな運転なら中型に乗ってな。」と言われ不合格になったという噂。
などが、まことしやかに流れていました。
一方、平均10回で合格する人が多い、という噂、また、
拙稿「ピースサインのこと4」で書いたように、2回で合格した
ツワモノが眼前にいることなど、いろいろな噂と現実がごちゃ混ぜになり、
わけわからん!状態でした。
この二俣川試験場に十五ヶ月通い、二十三回目で限定解除を果たした
中年男性(といっても、今の私から見れば若造だけどね)の話が
一冊の単行本になっているのです。
仲倉重郎さん、というその方は本業映画監督、脚本家。
1941年生まれ。
1978年6月、37歳にして突如オートバイに目覚める。
1980年12月、挑戦23回の末、見事ナナハンライダーの栄光を手にする。
(以上裏表紙の記載をほぼ転記しました)
中にはこんな根性のある人もいらっしゃいます。
私が限定解除した前後に発売された本で、元はミスターバイク(BGではない)誌上の
連載だったようです(「ミスターバイク」は毎月買っていたくせに記憶がない…)。
アマゾンでも楽天でももう、取り扱いがないかもしれません。
お暇でしたら、仲倉重郎著、『風の中心はいつもアウトバーン』(ブックマン社)
で検索をかけてみてください。
大型免許云々は置いといても、一つの物語として、一人の人間の生きた証として
大変面白い読み物です。
すみません。横道にそれました。
横道にそれついでにもういっちょ。
この本に出てくる二俣川試験場の試験車両、SUZUKI GT750は、
私が生まれて初めて乗った750。
上記の本の著者が限定解除に合格した試験車両、SUZUKI GSX750Eは、
奇しくも私が限定解除に合格した車両。
すみません。ブログっていうより、ただの脳みその中身の虫干しに
なってしまいました。
おやすみなさい
オートバイ原体験(その弐)
小学校の頃のKAWASAKI Wにまたがらせてもらたのが
私のオートバイ原体験(その壱)とすれば、
初めて自分で動かした原体験(その弐)は、母の実家であり、
私と母、弟の生家でもある、山梨県の小さな村の農道で
Hondaスーパーカブ50を、免許なしで操縦したことでしょう。
小さな村です。
祖父が持っていた山に行くには、車で十分。
誰にも会いません。車にもすれ違わないようなとんでもない田舎でした。
その村でいとこが所有していたカブにまたがって操縦したのは高校一年生の時。
その年、自動の二輪の免許制度に大型限定というのができると聞いた
オートバイ好きたちは皆、試験場に殺到しました。
私は、といえば、カブを少し動かしたからと言って
自分が大型二輪に乗れるなどと思ってもいなかったし、乗ろうとも思わなかったので
全く無反応でした(同級生の中にはナナハンで通学しているヤツもいましたが)。
高校二年生の時には悪友が友達から借りてきた(車種は覚えていません。ミッション付きの)YAMAHAの原付を運転したこともあります。
それでも、自分がオートバイに乗ろうとは思いませんでした。
が、大学に入り、当時の愛車、いすゞジェミニ1600LSで北海道をうろうろしていた時、
とあることからオートバイに乗りたい、という気持ちが起こったのです。
この辺からオートバイ熱が高まってきました。
この記事をご参考に。
こんなことがあって…
オートバイ原体験(その壱)
皆さん、最初に乗られたオートバイって、何だったんでしょう?
私はKAWASAKIの650cc、ツインのエンジンを積んだ
オートバイでした(今となってはもう正確な車種はわかりません。
ただ、小学生だった私には、
大きな音を出す大きなオートバイ
という記憶しかないのです。それがKAWASAKIのWだったとわかるのは、
そのあと数十年の時間が補正した記憶かもしれません)。
いずれにしろ、その大きなオートバイに乗る隣のおじさんは、
小学校四年生の時、私が初めて買ってもらった24インチの自転車を、
リアシートに括り付けて運んでくれたのです。
そんなに大きなシートだったんだなあ、と今は思います。
さて、「隣のおじさん」と言いました。
確かに間に住宅がない、という意味では隣です。
でも、そのおじさんの家と私の家との間には100坪になろうかという
空き地があったのです。
小学生だった私は、一度だけその大きなオートバイに乗せてもらった事があります。
おじさんの前、タンクとシートのはざまににまたがって、件の空き地を
一周したのです。
感触も何も覚えておりません。
ただ、自分の足で漕がずに進み、自分の足で漕ぐより数十倍も速いこの乗り物に
漠然とした憧れを抱いたことは覚えています。
そのおじさんが他界されて30年以上たった今、こんなことをふと思い出すのです。
そういえば、そのころ(30数年前)すでにレアになっていたWを、
おじさんのお通夜で千葉から横浜に向かう途中、野毛の坂道で見かけたのです。
あれは、おじさんがWに姿を変えて会いに来てくれたのかもしれない…などと
ありえないことを考えるなんて、阿呆ですね。
ところで、初めて自分で操縦したオートバイは…
写真も何もない、北海道でのキャンプの思い出。
なので、いつもにもましてつまらない事、請け合いです(本当に阿呆です)!
ま、置いといて、なんでこんな突拍子もない珍妙な記事を書き始めたのか...
昨夕、BS-TBSの「日本の旬を行く!路線バスの旅 把瑠都がめぐる北海道!
釧路~知床」という番組を見ていて、北海道を愛機Z750FOUR(初号機)で
旅したことをふと思い出したのです。
それは今から30年以上昔、まだインターネットなどなく、野外で泊まるための情報は、
小学館の「BePal」という雑誌位。
丁度「アウトドア」という言葉が人口に膾炙し始めたころでした。
北海道ツーリングに関する情報も、雑誌しかなかった。
「月刊オートバイ」「ミスターバイク(まだBGではなかった)」、
「THE Bike(廃刊になりました)」くらいなもの。
あとは、地域情報誌のようなものだったでしょうか。
そんな情報の少ない中、行く先はとにかく北海道(ったって広いんだから!←阿呆)。
できるだけ高速を使わず、青森か野辺地、または大間崎からフェリーに乗って
北海道入りする。
あとは風の吹くまま、気の向くまま、といういい加減な旅です。
ただ、当時定職に就いていた私にはタイムリミットがありました。
期間は十日間(夏休みをフルに使って十日間でした)。
北海道へは往復で三日、北海道で気ままに過ごせるのは約一週間でした。
準備したものは、ダンロップの一人用テント、創業間もなかったモンベルの
マミー型寝袋、EPIのガスコンロ、小さいケトル、飯盒、シェラカップ、
アルミの無垢の水筒、あとはCRC556、針金、着替え位でしょうか。
ランタンはありません。
今からすれば笑ってしまうような装備です。
でも、コンロで料理できなかったら、カップラーメンでも食べればいいや、
くらいの気持ちで旅に出ました。
まあ、とにかく国道4号線か6号線を走って青森県につき、フェリーで北海道入り。
あとは本当に気の向くままです。当然、ナビなどありません。
道路上に出る地名表示を見ながら、面白そうなところ、有名な所へと
愛機のフロントを向ける旅です。
そんな中でも、JR(もう国鉄ではなかった気がする)の駅前には
必ず周辺の案内地図があり、かなり高い確率で「無料キャンプ場」がその地図に
出ていたものでした。
確か洞爺湖の近くの無料キャンプ場でのことです。
一人で焚火をしながら晩御飯を食べていた私に二人の青年が声をかけてきました。
「ご一緒してもいいですか?」「どうぞ。」と、食後の酒を三人で飲みながら
話に花を咲かせました。
聞けば二人は大阪から来た先輩、後輩の間柄。
先輩の方はいつかお金をためてオーストラリアをオートバイで走りたいのだとか。
そんな話をしているとお隣のテントのオジサン(と言っても当時の私と同じくらいの
歳でしょう)が話に入り込んできました。
この方はご家族でいらしていたのですが、なぜか私たちの話の輪に加わってきて、
結構夜遅くまで(小さめの声で)話は続きました。
そこで知り合った皆さんとはそこで分かれ、
また一人でうろうろしている時、中標津あたりでめちゃくちゃ長い直線道路に出会いました。
それが、冒頭の番組で把瑠都さんが歩いていた、「ミルクロード」だと
知ったのがこの駄文の引き金になりました。
気の向くままの旅でも素晴らしい景色に出会えるし、
マニュアル通りでないキャンプでも、その醍醐味は味わえる。
そんなことを思い出させてくれた番組でした。
何かマニュアル通りに道具を揃え、マニュアル通りのテント泊をしなければいけない、
という強迫観念とは無関係だった何十年も昔の思い出を語る、
いつもの年寄りの繰り言でございました。
あの青年たちは今どうしているのだろう?
先輩さんからは「夢がかなってオーストラリアを走りました」という年賀状を
いただいたけれど、それも何十年も昔の話。
今どうしているのか知る術はありません。
もし、峠道で250や400に置いていかれる、どんくさい、
(しかも千葉に住んでいたのになぜか)横浜ナンバーのZ2を覚えていてくれて、
この記事を読んでいてくれる、というようなあり得ない奇跡を願う
酔っぱらいの戯言でございました。
皆様、お休みなさいまし。
こんなもんですか。
はい、終わりました。
橋下エンジンとやらの番組が川重を取材するという
一昨日あげた記事の番組でございます。
これから来るであろう死を見ている六十歳の目線と若い人、これからの未来を見据える人の目線とは、
当然違います。
かの名車を、そう簡単に走らせるわけもございません。
とにかく、録画したのは、もう消しました。
とだけ申し上げておきましょう。
お盆の帰省についてはまた日を改めて...
これ以上異常気象の被害を被る方が増えまませんようにお祈りしつつ
...
おやすみなさい。
とある夕暮れ時、
ってとぼけたことを言わず、有体にいえば、今日(8月12日の18時ごろ)です。
地上波のテレビがニュースに集中する時間、気まぐれにBSチャンネルを
ガチャガチャしておりまして
(はい、うちでは未だにガチャガチャです、さるぼぼさん)、
手がとまった(チャンネルがとまった)のはBSのTBSでした。
私は小学校時代から水戸黄門様のファンで、実をいうと初代東野英治郎さんの
シーズン1が一番なじみのあるものなのです。
まあ、小学生時代は自分の家系の甲斐武田家とのつながりも知らず、
ただ悪徳権力者を懲らしめる黄門様を楽しみに観ていたように思います。
まあ、それはさておき
「さがれおろう、こちらにおわすお方をどなたと心得る。
畏れ多くも先の副将軍、水戸光圀公にあらせらるるぞ!」という決まり文句の後、
皆が地べたに平伏し、悪の親玉が腹を切る、または最後の悪あがきをしてやっつけられる、という完璧に決まりきったパターンになんともすっきりさせられていたものでした。
ま、それもさておき、本題です。
黄門様は本題に関係ございません。
本題は、そのCMタイムに流れていたBSTBSの番組予告です。
「橋下エンジン」という番組で
土曜日(14日)夜11時、
「橋下エンジン」橋下徹が川崎重工業を取材!
という番組を放映するのです。
予告CMでは、最新型のニンジャはもとより、かの900スーパーフォア
(俗にいうZ1です)が走っている画像が…
もしカワサキオオートバイ販売株式のショールームに飾られていたスーパー4が走っている動画としたら、それは、ブレナンZ1F00001のZ初号機だと思うからです
(別冊モーターサイクリスト、1987年4月号による)。
ちなみに、この頃の別冊モーターサイクリストにもミスターバイクBGにも、
750RSとZ750FOURを区別している中古車情報は一つもございません。
すべてZ2のひとくくりでした。
まあ、それもさておき、とにかくこれは見逃せません。
今からハードディスクの空き容量を確保して準備している阿呆なZ750乗りの私で
ございました。
てっそん
漢字で書くと姪孫らしいです。別の名称では大姪らしいのですが、
ネット上の情報なのであまりあてにしないでください。
私が大学を卒業して就職をするまで編集のお手伝いをしていた
小学館第二編集部が編纂していた、「大辞泉」の紙バージョンには
どちらも記載がありませんでした。
まあ、「大辞泉」の母体になったと思われる「日本国語大辞典」には
記述があるようですし、「デジタル大辞泉」には記載があるのかも
知れませんが。
例によって例のごとく、それはさておき、なんです。
私の実弟の娘(姪)に子供が生まれ、
実弟がおじいちゃんになったというお話です。
必然的にわたしの実母はひいおばあちゃん、私は伯祖父という事になるらしいです。
姪孫にしろ伯祖父にしろ、どれも聞きなれない名称ですが、係累が増えると
こんな複雑な名前の親戚が増えるんですね。
今日はそんな話でなく、弟の話です。
私がオートバイの道にのめりこむことになったきっかけの一つは
この(おじいちゃんになった)弟です。
私が普通免許で従兄から貰ったスーパーカブに乗っていたころ、
弟が高校の友達からホンダのMT50(もう、誰も知らないだろうなあ)を借りて
来たのです。
私も乗せてもらいましたよ、もちろん。
ホンダの2ストはぶんぶん回りました。
調子に乗った私は信号からスタートするたびにパワーリフト(ただの阿呆です)。
そのうち弟の別の友人がYAMAHAのミニトレ80を3万円で売ってくれるという話を
聞き、二人とも(弟と私です)自動二輪の免許もないのに買ってしまったのです。
ま、ミニトレに関する話もおいといて、と(今度書きます。絶対。はい)。
その弟の誕生日が今日、五月五日なのです。
今でも覚えています。昭和三十七年五月五日の早朝のことです。
里帰り出産をしていた母の横で寝ていた私(三歳)は、何が理由だったのか
足をばたつかせていたのです。
その足が母のおなか(かなり大きかった)に当たり、言われたのです。
「生れそうだから暴れないで」と。
その後は記憶にありません。
母屋で産湯を使う弟の写真が残っているだけです。
そこから考えても私が暴れた後に弟が生まれたのは確かなのでしょう。
(当時の山梨の田舎では産婦人科なんか行きません。お産婆さんがうちに来て
くれるのです)
その弟とはたまに喧嘩しつつも、それなりに仲良くやってきました。
その弟が「おじいちゃん」とはねえ。
私も歳を取るわけですよ。
ミニトレの話は、またいつか(そのうち書きます絶対)。
あ、昭彦(弟です)、誕生日おめでとう!