還暦過ぎの750乗りだった年寄りの日記。

平成のおわりと、ほぼ時を同じくして定年を迎えました。愛機Z750Fourのこと、趣味のこと、日々の出来事や思い出話を徒然なるままに記していきます。

安全はトヨタの願い

だったのは昭和までで、平成と令和は、

事故を誘うような運転を薦めていらっしゃる。

何のことかわからない方は、

トヨタカローラTVCM」でグーグル先生に聞いてみてください。

 

で、下の写真は、言わずと知れたAE86です。

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ブラックレビン

 

この車を見たときに思い出したことが二つ。

 

一つ。昭和四十年代終わりころ、私の中学の同級生飯塚(通称ムーちゃん)が

初代ブラックレビン(トレノだったかもしれない。これも多分ですがTE47)に

乗っておりました。シリアルナンバーが記された、黒いボディにそそられたものです。

 

二つ。故徳大寺御大が、『間違いだらけの車選び』(御大は、

この本で世に出なさった。たしか昭和五十二年版)に、「安全を第一に謳うトヨタ

なぜ危険な黒を売るのか」と、このブラックレビン(か、トレノ)を、評して

いらしたのです。

 

確かに、濃色のクルマは、薄暗い時間に視認しにくいです。

また、そういうやつに限って、ライトをつけないんです。

 

ま、話を戻しましょう。

 

いま、トヨタが「安全」を「願い」にしているのかは存じ上げません。

 

が、敢えて申し上げたい。

いま、ネット上で観られるトヨタカローラのCMは、二本です(うち一本は

まだテレビで放映されています)。

 

いま、テレビで放映されていない方。

可愛い彼女と一緒にドライブする青年が、

一所懸命彼女の歌に合わせようとしている。

彼女は彼女で、ステアリングを回すしぐさをずっとやめない。

急な何かが起こって急ハンドルを切ったとき、彼女の動きはドライバーの

動きを邪魔しないのか。

 

放映中のCM

四人の友達と一緒にドライブをしている青年は、残りの四人(うち一人は

エアギターの様です)が夢中で奏でる音楽に合わせながら歌っているけれど

音楽に神経を集中していて、運転はおろそかにならないのか。

 

どっちのCMも、観ていて腹が立ってなりません。

 

全神経を研ぎ澄まして...とまでは言いません。私も、音楽を聴いたり、

家族の話に相槌を打ったりしながら運転することはあります。

でも、車内の誰より早く緊急車両のサイレンなどには気づきますし、

「人の話を聞いていないんだから」と怒られようと、車中での話に集中したりは

しません。

 

トヨタさんに伺いたい。

「運転は楽しいよ」というイメージCMを流すことが大切なのか、

「車の運転は、集中して」というメッセージを流すことが大切なのか、

 

どちらですか。

 

上記二つのCMは、車の楽しさは伝えているけれども、

ハンドルを握ることの重さは、伝えていないような気がします。

 

すみません、本当に世迷言でした...

が、若い人が事故で一生を棒に振ってほしくない

というのは、本音です。

 

 

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妄想だけなら...

自由ですよね。

そこで、

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イエーイ

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北海道だぜい‼

って、

……

ウソです。

 

ビールはウチの近くのスーパーの北海道フェアで購入

Zがとまっているのは、印旛沼のほとりの公園(の駐車場)。

 

夕方、涼しくなってからチョロっと走っただけです。

 

でも、今はこれくらいしか楽しみがない。

 

さあ、明日も頑張ろう(何をだよ)。

 

 

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西の方では大変だというのに、

のんきに縄張りパトロールをしてきました。

ちょっとひまわりを探しましたが。

 

その1。

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背を向けられた

 

なぜか、うちの近所、ひまわりが皆道路に背を向けている。

ちょっときれいなひまわりがあっても

オートバイが入れない場所に咲いている。

 

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左の道路はオートバイ進入禁止です。

暑い暑いと言いながらも、日が傾いて少し涼しくなった夕方、

近所の縄張りをパトロールしてきました。

 

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こんな看板建てたって…

で、「鈴、ラジオを携行」…って、熊かい!

 

歩いている時に出会ったら、どうすんじゃい!

 

台風が、大きな被害をもたらさないよう祈りつつ、

明日の自治会の草刈りに備えて

 

おやすみなさい。

 

 

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台風が近づいています。

以前、diaryにこんな記事を書きました。

 

どうも。遅くに失礼します。

お若い方には想像もつかないでしょうが、

昔(50年ほど前)には、電力不足のため、日本中のTV放送局が

放送中止の時間を設けていました。

 

私が覚えているのは、昼の2~4時くらい、

いろいろな局が「放送休止」していたものでした。

 

中学生位(昭和46年から48年頃)には、そんなことはなくなりましたが、

深夜0時を過ぎると、どの放送局も(多分)早暁5時までは、

放送を中止していたものです。ただ砂嵐だけが流れていました。

しかも当時は、衛星放送やUHFなど存在せず、地上波だけでした

(ラジオはずっと放送していたけど)。

 

深夜から翌朝まで異常気象が予想されているとき、頼りになるのはNHKでした。

静止画の上に字幕が流れ、各地の気象状況を流しつつ、BGMは(多分)バッハの

チェンバロ曲です。

 

これが好きだったんです。私が経験した異常気象とは、

ほとんどが「大雪・積雪」に関するものでした。

 

明日は、学校が休みになるといいなあ。

 

そんなことを、深夜のNHKの放送字幕を見、音楽を聴きつつ、

夜更かしをして、

明朝予報が外れてカラリと晴れた空を見ながら、

学校に遅刻していたのは、私です。

 

明日は関東地方を台風が直撃する予報ですが、

ケガ人など、でませんように。

 

では、おやすみなさい。

 

などと、のんきなことを書いていたら、

去年の台風(何号だ?)は、千葉を直撃。

一週間以上の停電を経験する羽目になりました。

 

その件については、いずれdiaryを掘り返しますが、

電気が来ないのは、困った。

エアコン、冷蔵庫はもちろん、

洗濯機も、濯ぎ(か脱水)の途中でダウン、

 

洗濯物の投入口を、10日余りあけられなかったのです。

通電して開けたら、とんでもないにおいが…

 

冷蔵庫はただの断熱ボックス。

最初の二、三日は庫内の食材で多少冷えていましたが、

そんなのがいつまでも持つはずがありません。

 

結局すべての食材を廃棄。

 

冷房も当然、無し。

印旛沼の気化熱で、多少は涼しいこのあたりとは言え、

昼は地獄。

 

幸いだったのは水道が生きていたことです。

おかげで、渇きもせず、

何より、トイレの心配がなかったからです。

 

まあ、偉そうに教訓めいたことはなんぼでも書けるでしょうが、

今夜はこれくらいにしておきます。

 

とにかく、誰もがつらい思いをしないように、

        悲しい思いをしないように、

                 

        と祈るばかりです。

 

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海軍道路のこと(最終回)

上瀬谷通信隊跡地に巨大テーマパークをつくるという話が、千葉の片田舎に住む私の

目に触れて何日経つのでしょうか。

 

上瀬谷通信隊跡地というのは、旧日本海軍の軍用地であり、戦後米軍に接収された

横浜市瀬谷区北部のだだっ広い土地のことです。

 

相鉄線瀬谷駅から北に走る「海軍道路」というのは、この軍用地のために作られた

道路で、戦中は、鉄道も併設されていたようです(太字部はネット上の知識なので、

真偽は不明です)。

 

上瀬谷と下瀬谷という二カ所に、在日米軍の通信隊基地がおかれて

おり、私の記憶に直接かかわるのは上瀬谷通信基地の方です。

 

 当時私が通っていた横浜市立瀬谷中学校は、一学年が十数クラスある

マンモス校でした。

小学校三年になるとき、相沢小学校(当時は分校扱い)が竣工し、

結構な数の児童が転校(というのか?)しました。

 

その相沢小学校の学区に当たるのが細谷戸という県営住宅の一帯でした。

そして、その細谷戸団地は上瀬谷通信隊の敷地に接しており、

いろんな話を聞いたものです。

 

以下、話を聞いたというのはあくまでも私の記憶の中では事実ですが、

その話をした昭和四十年代の小学生が、すべて事実を話していたのかは

確証がありません。

曰く、

 ①蛍光灯がつけられない

 (↑グロー管のノイズが米軍の通信機器に支障を与えるため)。

  本当かねえ?昭和も四十年代だよ。そんなやわな機械を米軍が使っていた?

  しかも小学生がグロー管だのノイズだの生意気な!

 ②通信隊の敷地に入ると鉄砲で撃たれる。

  (これも眉唾ですよ。誰かが撃たれたなんて聞いたことないですし。)

等です。

まあ、小学生の話と小学生の記憶ですから、本当かどうかは不明です。

話半分に聞いておいてください。

 

学生になり、みんな自分の(または自分の家の)車に乗るようになると、

通信隊の敷地もまた違った意味を持ち始めます。

そこで好き勝手に車を走らせたりしました。

 

とにかく広いんです。日本人が入ることのできる区域の中にも

草野球場が三つ四つ、広場、畑など、大平原という感じでした。

通信隊ではないですが、この敷地の、海軍道路を挟んだ西側には

畑や林がなだらかに広がり、遠く、丹沢山塊が見えます。

 

ここからは、残念ながら富士山はほんのちょっとしか見えないのですが。

 

私の父の墓は、この通信隊跡地の東(そこはもう旭区)にあります。

冬の夕暮れ時に墓に立って振り返ると、丹沢山塊と富士の頂上をかすめて

日が沈んでいきます。

 

山梨の八ヶ岳南麓に生まれ育った父の墓から富士が見えるというのは、

何よりの供養だと思っております(父の生家からは富士がよく見えたのです)。

 

それが!

通信隊の跡地にバカでかいビルだのなんだのが建ったら

父の墓から山が見えないじゃないか。

 

今の時代、そんな箱ものに金を使うのはおかしい、という公憤と

墓からの眺望を邪魔すんじゃねえやい!という私憤とを

ないまぜにしつつ、巨大テーマパークなんぞつくったって

東京からアクセスの悪い土地ではやるはずがない。

ドリームランドの二の舞になるぞ!と思う私でした。

 

駄文、長文、大変に失礼しました。

 

台風10号で、つらい思い、悲しい思いをされる人が

一人でも少ないように祈りつつ、終わらせていただきます。

 

 

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海軍道路のこと

先日、「スローなブギにしてくれ」の記事で、

 

piroji1616.hatenablog.com

 

横浜西部にある「海軍道路」という道路について、

「いつか記事にします。」と書いたのですが、

思いもよらず、「横浜ドリームランド」つながりで

「海軍道路のこと」を書く機会が来ました。

 

そもそも私のように、戦後二十年を過ぎた頃に海軍道路の近くで育った者にとって、

「海軍道路」とは、

 ・旧日本海軍が関係していた(←当たり前だろ!海軍道路なんだから。)

 ・近くにあった厚木基地に着陸できなかった航空機の非常用の滑走路に転用する

  ことも考えられていたらしい(←多分4キロくらいの直線道路です)

 ・南門と呼ばれる石造りの門があり、そこから先は軍用地だった。

位の知識しかありませんでした。

今のようにインターネット上であらゆる情報を手に入れられる時代とは違って、

みんな、この程度の知識で満足していたものです(もちろん、今「海軍道路」と

検索すれば、正しい知識がいっぱい入手できます。

が、それは今回の趣旨ではないのでやめておきます)。

 

さて、前振りはこれくらいにして、海軍道路の思い出です。

 私が通学していた横浜市立瀬谷中学校は、この海軍道路の南端に接しています。

中学の門を出て最初の信号から北が海軍道路でした。

 

授業中、誰かが何かをやらかすとブチ切れた先生は

「お前ら全員南門往復してこい!」と怒鳴り、

クラス全員を南門まで往復走らせたものです(多分片道2キロメートルくらい)。

 これって、完璧に体罰ですが、当時(昭和四十年代中頃)の瀬谷中生に

そんなことを言うやつは一人もいませんでした。

生徒会長から悪ガキまで、一人も。

 

それは当時の瀬谷中の先生方が皆、生徒への愛情に溢れていたからだと思います。

 

ま、先生の話はこれくらいにしておきます。

 

まあ、中学校時代は、海軍道路というとそんな記憶しかないのですが、

二輪の免許を取ってからはちょっと違ってきます。

 

YAMAHAのGX250に乗っていたころは、長い直線で、交通量も少ないことから、

6速までシフトアップして、アクセルを閉じ、時速30キロくらいまで速度が落ちた

ところで、アクセル全開。GXがちょっと身震いしつつ、パラレルツインの快音を響かせつつ回転を上げていくのを聴くのが楽しみでした(これは、同じエンジンを積むXS250に乗っていた『月間オートバイ』詩の誌の編集部員、高橋さんという方が

YAMAHAツインの楽しみ方」という記事で書かれていたことの真似っこでした)。

 

Zを手に入れてからは、ちょっと違いました。

まあ、横浜に住んでいてZに乗った期間はひと月ちょっとでしたから、

そんなに何度もこんなことをしたとはお思い下さらないよう、また、

よい子の皆さんは、決して真似をなさらないよう、重ねてお願い申し上げます。

 

海軍道路は長い直線道路、しかも制限速度は40㌔。両脇には桜並木

(あのころは植えられたばかりだったけど)。

 

レーダーが仕掛けやすい条件がそろっていました。

よく、制服姿の猫さんたちがネズミを狙って隠れていました。

 

 Zで走っていると猫さんがネズミを狙っていることがしばしばあったのですが、

 そんな時私はZをUターンさせ、レーダーを通り過ぎたところでシフトダウン、

サイン会場の真横辺りでは、時速ぬわわ㌔くらいに達したでしょうか。

「ちっ」と舌打ちをしているであろう白バイの猫さん、レーダー担当の猫さんを

横目に当時すでに型遅れだったZを、意気揚々と走らせたものです。 

そんなバカなことをして猫じゃらしをしたものです。

 

 さて、バカなことを書いていないで、次回、「横浜ドリームランドと

通信隊跡地」のお話です。 

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