海軍道路のこと(最終回)
上瀬谷通信隊跡地に巨大テーマパークをつくるという話が、千葉の片田舎に住む私の
目に触れて何日経つのでしょうか。
上瀬谷通信隊跡地というのは、旧日本海軍の軍用地であり、戦後米軍に接収された
相鉄線の瀬谷駅から北に走る「海軍道路」というのは、この軍用地のために作られた
道路で、戦中は、鉄道も併設されていたようです(太字部はネット上の知識なので、
真偽は不明です)。
上瀬谷と下瀬谷という二カ所に、在日米軍の通信隊基地がおかれて
おり、私の記憶に直接かかわるのは上瀬谷通信基地の方です。
当時私が通っていた横浜市立瀬谷中学校は、一学年が十数クラスある
マンモス校でした。
小学校三年になるとき、相沢小学校(当時は分校扱い)が竣工し、
結構な数の児童が転校(というのか?)しました。
その相沢小学校の学区に当たるのが細谷戸という県営住宅の一帯でした。
そして、その細谷戸団地は上瀬谷通信隊の敷地に接しており、
いろんな話を聞いたものです。
以下、話を聞いたというのはあくまでも私の記憶の中では事実ですが、
その話をした昭和四十年代の小学生が、すべて事実を話していたのかは
確証がありません。
曰く、
①蛍光灯がつけられない
(↑グロー管のノイズが米軍の通信機器に支障を与えるため)。
本当かねえ?昭和も四十年代だよ。そんなやわな機械を米軍が使っていた?
しかも小学生がグロー管だのノイズだの生意気な!
②通信隊の敷地に入ると鉄砲で撃たれる。
(これも眉唾ですよ。誰かが撃たれたなんて聞いたことないですし。)
等です。
まあ、小学生の話と小学生の記憶ですから、本当かどうかは不明です。
話半分に聞いておいてください。
学生になり、みんな自分の(または自分の家の)車に乗るようになると、
通信隊の敷地もまた違った意味を持ち始めます。
そこで好き勝手に車を走らせたりしました。
とにかく広いんです。日本人が入ることのできる区域の中にも
草野球場が三つ四つ、広場、畑など、大平原という感じでした。
通信隊ではないですが、この敷地の、海軍道路を挟んだ西側には
畑や林がなだらかに広がり、遠く、丹沢山塊が見えます。
ここからは、残念ながら富士山はほんのちょっとしか見えないのですが。
私の父の墓は、この通信隊跡地の東(そこはもう旭区)にあります。
冬の夕暮れ時に墓に立って振り返ると、丹沢山塊と富士の頂上をかすめて
日が沈んでいきます。
山梨の八ヶ岳南麓に生まれ育った父の墓から富士が見えるというのは、
何よりの供養だと思っております(父の生家からは富士がよく見えたのです)。
それが!
通信隊の跡地にバカでかいビルだのなんだのが建ったら
父の墓から山が見えないじゃないか。
今の時代、そんな箱ものに金を使うのはおかしい、という公憤と
墓からの眺望を邪魔すんじゃねえやい!という私憤とを
ないまぜにしつつ、巨大テーマパークなんぞつくったって
東京からアクセスの悪い土地ではやるはずがない。
ドリームランドの二の舞になるぞ!と思う私でした。
駄文、長文、大変に失礼しました。
台風10号で、つらい思い、悲しい思いをされる人が
一人でも少ないように祈りつつ、終わらせていただきます。