還暦過ぎの750乗りだった年寄りの日記。

平成のおわりと、ほぼ時を同じくして定年を迎えました。愛機Z750Fourのこと、趣味のこと、日々の出来事や思い出話を徒然なるままに記していきます。

9月9日は

菊の節句です。

正しくは、「重陽」。

古代日本人は奇数を陽の数として重く見て、偶数を陰の数とする陰陽道

考えに基づき、一、三、五、七、九という月のその数字の日を陽の数が

重なった日として、節句にするのですが、その中で最大の数である九が

重なった、九月九日を重陽としたのです(陽が重なるですね)。

平安時代には宮中で菊の節句の宴が開かれていたそうです。

 一、三、五、七、級という数字が、昭和の子供たちのアニメヒーローの

タイトルにも多く使われてきたのは、奇数を重く見る陰陽道の影響なのかも、

と思います。

以下、私の記憶にあるアニメ(一部特撮)のヒーローの名前(やタイトル)を

挙げておきます。

ご存じない方は、ゴーグル先生にでもお尋ねください。

 

1:アニマルワン

3:ワンダースリー

5:マッハゴーゴーゴー

7:ウルトラセブン、ワイルドセブン

9:サイボーグ009

11:赤き血のイレブン

13:ゴルゴ13

といったところでしょうか。

エイトマン」は末広がりの八だから、別格でしょう。

私が読者になっているhoneyhornetさんの記事を読んで、

www.honeyhornet600.com

思い出したのですが、ちょっと、前回の記事を修正、加筆いたしました。

 

 

という話は置いといて、「チョロQ」の日でもあるそうです。

新聞によると、いま、「チョロQ」の主な市場は、大人だそうです。

 

ただのプルバック式で走るおもちゃではなく、こんなのがあるんですよ

(私が買ったのは数年前の話です。今も手に入るようです。)。

 

f:id:piroji1616:20200909204509j:plain

Qステア

という名です。

左側の方形のものがコントローラー、本体は5cmにも満たない。これが、

左にあるコントローラーからの赤外線でコントロールできるんです。

 

システムは違うけど、簡単に言ってしまうと、ラジコンカーです。

私、鉄道模型も好きですが、実はラジコンが大好きなんです。

 

本当は飛行機を飛ばしたい。

でも、スキルもないしお金もかかる。

すると残されたのは車とかボート。

ボートは広い水面が必要です(印旛沼は?)。で、一番手近かなのが、車です。

 

手近とは言え送受信機のセットだけで数万円、

エンジンで走る車なら、もっとお金はかかるでしょう。

 

そういった意味で、ボタン電池4個でコントロールできるこのQステアは

子供のころの夢をかなえてくれるものだったのです。

 

操縦性は、高価なラジコンの送受信機を使ったものとは比べものにはなりません。

 

でも、コードがついてないもので車を操る楽しさを味わえます。

 

以下、営業です。

 

 

Qステア QSS04 スバル360スターターセット (C/D)

Qステア QSS04 スバル360スターターセット (C/D)

  • 発売日: 2006/09/30
  • メディア: おもちゃ&ホビー
 

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

 

 

 

安全は、すべての人の願い

なのはいうまでもないことですが…

 

「若者の車離れ」という現実があるそうです。

還暦過ぎの年寄りには想像もつきません。

私が免許を取ったばかりの頃は、まだファミレスもでき始めたばかり。

                 コンビニもほとんどなかった。

                 郊外型のファストフード店も。

なので、高校時代の友人たちと集まるときには、

みんな車で(ほとんどが家庭所有のいわゆる「ウチの車」でしたが)、

誰それの家に集合!っていう感じでした。

 

ネットもない、携帯もない時代、有線電話で連絡を取り合い、

誰かの家に集合すると、何台かの車に分乗して夜のドライブに行ったものでした。

 

横浜西部に住んでいた私、S介、K野、H林の家に集合すると、

行く先は大抵、相模川のもぐり橋か、江ノ島

横浜市中央部に住んでいたM伸の家に集合した時は、

港の見える丘公園山下公園、大桟橋などでした。

 

車を止めても、何をするわけでもない、

高校時代の思い出話、大学生活の話、まあ、俗にいう「無駄話」というやつです。

そんなことをして夜を過ごすのが無性に楽しかったし、

皆自分の運転技術を上げようと、情報交換、切磋琢磨などをしていたものです。

 

そんなふうに「車」が生活の中に入り込み始めたころ、

その事故は起こりました。

 

S本(中学まで同窓だった。高校は全く違う所に進学したので、付き合いはなかった)が運転する車が事故を起こし、同乗していたI原が死んだというのです。

I原は、小学校四年から中学二年か三年ころまで同級でした(高校は全く違うところ

だったので、中学卒業以来、付き合いはありませんでした)。

たまたまI原の妹が当時中学生だった私の弟と中学の同級生だったので、

情報が入ったのだと思います(これは違うかも、ですが、本題とは関係ないので、

これ以上は触れません)。

 

通夜の夜、中学校(横浜市立瀬谷中学校)でI原の担任だった先生方は、

皆、駆けつけてくださいました。

特に中一の時の担任だった粕谷先生は

「正ちゃん(I原のこと)は、優しくて本当にいい子だったよね」と

私に話しかけてくださいました。

 

小学校(横浜市立瀬谷小学校)の先生方(先生と呼ぶのも腹が立つ)は、

誰も来ません。

I原が四年から六年まで三年間担任を持った

𠮷原由比子先生は、本葬の時も顔を出しませんでした。

 

それって、どうなの?と思いますが、今日の話題とは話が違うので、ここで

やめておきますが…

 

 本題に戻りましょう。

通夜の夜、居間に寝かされたI原の遺体の前で、I原のおばあちゃんが、S本に

「正一(I原のこと)を返せ!」と叫んでいたことを

この記事のまとめとしましょう。

 

車の中で彼女と楽しい時を過ごすのも、

    友人と一緒に歌を歌うのも、

  道交法では禁止されていません(ですよね)。

でも、運転に集中せずに悲劇を起こしたあなたは、

「○○を返せ!」というご親族の叫びに何と答えますか?

 

何の話じゃい?と思う方は

 

piroji1616.hatenablog.com

からお読みください。

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

 

 

安全はトヨタの願い

だったのは昭和までで、平成と令和は、

事故を誘うような運転を薦めていらっしゃる。

何のことかわからない方は、

トヨタカローラTVCM」でグーグル先生に聞いてみてください。

 

で、下の写真は、言わずと知れたAE86です。

f:id:piroji1616:20200906231846p:plain

ブラックレビン

 

この車を見たときに思い出したことが二つ。

 

一つ。昭和四十年代終わりころ、私の中学の同級生飯塚(通称ムーちゃん)が

初代ブラックレビン(トレノだったかもしれない。これも多分ですがTE47)に

乗っておりました。シリアルナンバーが記された、黒いボディにそそられたものです。

 

二つ。故徳大寺御大が、『間違いだらけの車選び』(御大は、

この本で世に出なさった。たしか昭和五十二年版)に、「安全を第一に謳うトヨタ

なぜ危険な黒を売るのか」と、このブラックレビン(か、トレノ)を、評して

いらしたのです。

 

確かに、濃色のクルマは、薄暗い時間に視認しにくいです。

また、そういうやつに限って、ライトをつけないんです。

 

ま、話を戻しましょう。

 

いま、トヨタが「安全」を「願い」にしているのかは存じ上げません。

 

が、敢えて申し上げたい。

いま、ネット上で観られるトヨタカローラのCMは、二本です(うち一本は

まだテレビで放映されています)。

 

いま、テレビで放映されていない方。

可愛い彼女と一緒にドライブする青年が、

一所懸命彼女の歌に合わせようとしている。

彼女は彼女で、ステアリングを回すしぐさをずっとやめない。

急な何かが起こって急ハンドルを切ったとき、彼女の動きはドライバーの

動きを邪魔しないのか。

 

放映中のCM

四人の友達と一緒にドライブをしている青年は、残りの四人(うち一人は

エアギターの様です)が夢中で奏でる音楽に合わせながら歌っているけれど

音楽に神経を集中していて、運転はおろそかにならないのか。

 

どっちのCMも、観ていて腹が立ってなりません。

 

全神経を研ぎ澄まして...とまでは言いません。私も、音楽を聴いたり、

家族の話に相槌を打ったりしながら運転することはあります。

でも、車内の誰より早く緊急車両のサイレンなどには気づきますし、

「人の話を聞いていないんだから」と怒られようと、車中での話に集中したりは

しません。

 

トヨタさんに伺いたい。

「運転は楽しいよ」というイメージCMを流すことが大切なのか、

「車の運転は、集中して」というメッセージを流すことが大切なのか、

 

どちらですか。

 

上記二つのCMは、車の楽しさは伝えているけれども、

ハンドルを握ることの重さは、伝えていないような気がします。

 

すみません、本当に世迷言でした...

が、若い人が事故で一生を棒に振ってほしくない

というのは、本音です。

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

 

妄想だけなら...

自由ですよね。

そこで、

f:id:piroji1616:20200906215353j:plain

イエーイ

f:id:piroji1616:20200906215417j:plain

北海道だぜい‼

って、

……

ウソです。

 

ビールはウチの近くのスーパーの北海道フェアで購入

Zがとまっているのは、印旛沼のほとりの公園(の駐車場)。

 

夕方、涼しくなってからチョロっと走っただけです。

 

でも、今はこれくらいしか楽しみがない。

 

さあ、明日も頑張ろう(何をだよ)。

 

 

にほんブログ村 バイクブログ 関東バイクライフへ
にほんブログ村

 

にほんブログ村 バイクブログ カワサキへ
にほんブログ村 ブログランキング・にほんブログ村へ

西の方では大変だというのに、

のんきに縄張りパトロールをしてきました。

ちょっとひまわりを探しましたが。

 

その1。

f:id:piroji1616:20200905220206j:plain

背を向けられた

 

なぜか、うちの近所、ひまわりが皆道路に背を向けている。

ちょっときれいなひまわりがあっても

オートバイが入れない場所に咲いている。

 

f:id:piroji1616:20200905220421j:plain

左の道路はオートバイ進入禁止です。

暑い暑いと言いながらも、日が傾いて少し涼しくなった夕方、

近所の縄張りをパトロールしてきました。

 

f:id:piroji1616:20200905220759j:plain

こんな看板建てたって…

で、「鈴、ラジオを携行」…って、熊かい!

 

歩いている時に出会ったら、どうすんじゃい!

 

台風が、大きな被害をもたらさないよう祈りつつ、

明日の自治会の草刈りに備えて

 

おやすみなさい。

 

 

にほんブログ村 バイクブログ カワサキへ
にほんブログ村 にほんブログ村 バイクブログ 関東バイクライフへ
にほんブログ村 ブログランキング・にほんブログ村へ

 

台風が近づいています。

以前、diaryにこんな記事を書きました。

 

どうも。遅くに失礼します。

お若い方には想像もつかないでしょうが、

昔(50年ほど前)には、電力不足のため、日本中のTV放送局が

放送中止の時間を設けていました。

 

私が覚えているのは、昼の2~4時くらい、

いろいろな局が「放送休止」していたものでした。

 

中学生位(昭和46年から48年頃)には、そんなことはなくなりましたが、

深夜0時を過ぎると、どの放送局も(多分)早暁5時までは、

放送を中止していたものです。ただ砂嵐だけが流れていました。

しかも当時は、衛星放送やUHFなど存在せず、地上波だけでした

(ラジオはずっと放送していたけど)。

 

深夜から翌朝まで異常気象が予想されているとき、頼りになるのはNHKでした。

静止画の上に字幕が流れ、各地の気象状況を流しつつ、BGMは(多分)バッハの

チェンバロ曲です。

 

これが好きだったんです。私が経験した異常気象とは、

ほとんどが「大雪・積雪」に関するものでした。

 

明日は、学校が休みになるといいなあ。

 

そんなことを、深夜のNHKの放送字幕を見、音楽を聴きつつ、

夜更かしをして、

明朝予報が外れてカラリと晴れた空を見ながら、

学校に遅刻していたのは、私です。

 

明日は関東地方を台風が直撃する予報ですが、

ケガ人など、でませんように。

 

では、おやすみなさい。

 

などと、のんきなことを書いていたら、

去年の台風(何号だ?)は、千葉を直撃。

一週間以上の停電を経験する羽目になりました。

 

その件については、いずれdiaryを掘り返しますが、

電気が来ないのは、困った。

エアコン、冷蔵庫はもちろん、

洗濯機も、濯ぎ(か脱水)の途中でダウン、

 

洗濯物の投入口を、10日余りあけられなかったのです。

通電して開けたら、とんでもないにおいが…

 

冷蔵庫はただの断熱ボックス。

最初の二、三日は庫内の食材で多少冷えていましたが、

そんなのがいつまでも持つはずがありません。

 

結局すべての食材を廃棄。

 

冷房も当然、無し。

印旛沼の気化熱で、多少は涼しいこのあたりとは言え、

昼は地獄。

 

幸いだったのは水道が生きていたことです。

おかげで、渇きもせず、

何より、トイレの心配がなかったからです。

 

まあ、偉そうに教訓めいたことはなんぼでも書けるでしょうが、

今夜はこれくらいにしておきます。

 

とにかく、誰もがつらい思いをしないように、

        悲しい思いをしないように、

                 

        と祈るばかりです。

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

海軍道路のこと(最終回)

上瀬谷通信隊跡地に巨大テーマパークをつくるという話が、千葉の片田舎に住む私の

目に触れて何日経つのでしょうか。

 

上瀬谷通信隊跡地というのは、旧日本海軍の軍用地であり、戦後米軍に接収された

横浜市瀬谷区北部のだだっ広い土地のことです。

 

相鉄線瀬谷駅から北に走る「海軍道路」というのは、この軍用地のために作られた

道路で、戦中は、鉄道も併設されていたようです(太字部はネット上の知識なので、

真偽は不明です)。

 

上瀬谷と下瀬谷という二カ所に、在日米軍の通信隊基地がおかれて

おり、私の記憶に直接かかわるのは上瀬谷通信基地の方です。

 

 当時私が通っていた横浜市立瀬谷中学校は、一学年が十数クラスある

マンモス校でした。

小学校三年になるとき、相沢小学校(当時は分校扱い)が竣工し、

結構な数の児童が転校(というのか?)しました。

 

その相沢小学校の学区に当たるのが細谷戸という県営住宅の一帯でした。

そして、その細谷戸団地は上瀬谷通信隊の敷地に接しており、

いろんな話を聞いたものです。

 

以下、話を聞いたというのはあくまでも私の記憶の中では事実ですが、

その話をした昭和四十年代の小学生が、すべて事実を話していたのかは

確証がありません。

曰く、

 ①蛍光灯がつけられない

 (↑グロー管のノイズが米軍の通信機器に支障を与えるため)。

  本当かねえ?昭和も四十年代だよ。そんなやわな機械を米軍が使っていた?

  しかも小学生がグロー管だのノイズだの生意気な!

 ②通信隊の敷地に入ると鉄砲で撃たれる。

  (これも眉唾ですよ。誰かが撃たれたなんて聞いたことないですし。)

等です。

まあ、小学生の話と小学生の記憶ですから、本当かどうかは不明です。

話半分に聞いておいてください。

 

学生になり、みんな自分の(または自分の家の)車に乗るようになると、

通信隊の敷地もまた違った意味を持ち始めます。

そこで好き勝手に車を走らせたりしました。

 

とにかく広いんです。日本人が入ることのできる区域の中にも

草野球場が三つ四つ、広場、畑など、大平原という感じでした。

通信隊ではないですが、この敷地の、海軍道路を挟んだ西側には

畑や林がなだらかに広がり、遠く、丹沢山塊が見えます。

 

ここからは、残念ながら富士山はほんのちょっとしか見えないのですが。

 

私の父の墓は、この通信隊跡地の東(そこはもう旭区)にあります。

冬の夕暮れ時に墓に立って振り返ると、丹沢山塊と富士の頂上をかすめて

日が沈んでいきます。

 

山梨の八ヶ岳南麓に生まれ育った父の墓から富士が見えるというのは、

何よりの供養だと思っております(父の生家からは富士がよく見えたのです)。

 

それが!

通信隊の跡地にバカでかいビルだのなんだのが建ったら

父の墓から山が見えないじゃないか。

 

今の時代、そんな箱ものに金を使うのはおかしい、という公憤と

墓からの眺望を邪魔すんじゃねえやい!という私憤とを

ないまぜにしつつ、巨大テーマパークなんぞつくったって

東京からアクセスの悪い土地ではやるはずがない。

ドリームランドの二の舞になるぞ!と思う私でした。

 

駄文、長文、大変に失礼しました。

 

台風10号で、つらい思い、悲しい思いをされる人が

一人でも少ないように祈りつつ、終わらせていただきます。

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ