怖い話その2
今週(もう先週ですが)のお題「怖い話」に引っ張られて、前回は
幽霊に遭遇したお話を書きました。
今日は、それよりずっと昔、昭和三十七年か、三十八年頃のお話です。
当時私は大田区雑色という町に住んでいました。
隣は広い空き地、裏には段ボール工場、あとは多分普通の民家。
ウチには風呂がなかったので、行水を使ったり、
洗濯機の洗濯槽で水浴びをさせられた記憶があります。
ちょっと離れたところに銭湯があり、たまにそこへ通っておりました。
その銭湯のお湯が黒かったのを覚えています(ネットで調べてみると大田区には
黒湯温泉というものがあり、それだったのかな、と思います)。
そんな昭和三十年代終わりころ(1964年の東京オリンピック以前、東海道新幹線も
開通していませんでした)。
ある日、その日共稼ぎだった両親が在宅していたのかは記憶がありません。
自分がウチ(四畳半一間の借家住まいでした)を出て、目の前にある通りを左に
曲がったところで黒いコートの男の人(これだけは記憶がはっきりしています)に
「坊や、おいしいものあげるからおいで。」と声を掛けられたのです。
私は何も言わず家へ逃げ帰りました。
あの時おいしいものにつられてついていったら...
未だに忘れられない怖い思い出でした。
怖い話
このお話はすべて事実です。
一切の誇張や虚構がないことをお断りしておきます。
そんなに怖い話ではないかもしれない、という事も書き添えておきます。
今を遡ること半世紀。昭和四十年代の山梨県北巨摩郡(現北杜市)の、
父の実家でのことです。八月のお盆に帰省していた小学校低学年だった私は、夏祭りの
味噌田楽がおいしくてつい調子に乗って食べすぎました。
その深夜、腹痛に襲われました。
田舎の農家の家の作りとして、便所(断じてトイレなどというものではない)は別棟。
一間四方の、汲み取り式です(下肥として使うので)。
深夜に母屋から離れた便所に1人で行くことの恐怖に、腹痛と便意は勝ちました。
一人で布団を抜け出し、位牌がいっぱい並んだ仏壇の前を通り、
母屋から出て便所へ。
母屋の玄関(の外)には裸電球が一つ。
便所の電灯はそれより小さな電球。
その母屋の裸電球の光が届く範囲を抜け、
便所の前に立った私は、ふと、母屋を振り返りました。
すると、白い着物を着た人が母屋の脇に立っているのです。
「ああ、これが幽霊なんだな」と、子供のくせに冷静に考えながら
便所に入りました。
腹痛と便意が収まり(要するに下痢が終わり)、
そろそろ母屋へ戻ろうかと思った時、
足音が近づいてくるのです。
「幽霊が来た!」という恐怖心と、
「幽霊には足がないから、足音はしないんじゃ...」というこまっしゃくれた思いが
ないまぜでした。
ドアを叩く音がしました。
心臓をつかまれたような、というのは
あの時のことを言うのでしょう。
「どうした?腹が痛いのか。」
という今は亡き伯父さんの声を聴いて
生き返りました。
伯父さんと一緒に母屋に戻りつつ、
さっき幽霊(と、今も思っています)がいた場所を見ると、
何もありません、何もいません。
翌朝、日の光の下で見てもやはりそこには何もありませんでした。
更にその日の夕方、伯母さんが近くの川で精霊流しをしつつ、
「ご先祖さん、来年もまた来ておくんなさい。」と呟いていたのを
まだ覚えています。
私が見たのは、ご先祖の一人だったのでしょうか。
あまり怖くもないお話にお付き合いいただき、ありがとうございました。
Z750Fourのこと(昔語り 2)
私の愛機Z750Fourは、実は二台目で二代目です。
八千代市の某アパートに住んでいた、
1995年頃、盗難に遭い、
タンク、サイドカバー、バックミラーという定番パーツ
そして、ナンバープレートまで盗まれ、
モトランドカジカワさんのご尽力でRSの(通称)火の玉タンクに姿を変えて
生き返ったのです。
ナンバーは陸運事務所で再発行してもらい、公道を走れるようになったのですが、
その後、生活苦のために、売られて行ってしまったのでした(悲)...
今思ってもかわいそうなことをしたと思います。
ちょっと、その初号機の昔話を一つ。
横浜ナンバーです。
この五年ほど後に行った北海道ツーリングでは、
FZ400初め、いろんなオートバイに追い回され、大変でした
(もちろんウソ。わかる人だけあきれてください)。
以下、本当の話です。
この初号機に乗り始めて間もなく、都内の国道14号線(通称京葉道路。
高速じゃない方)を走っていた時のことです。
当時は二段階停止線というものがあり、オートバイやバイクは、
赤信号の時に横断歩道直前に引かれた停止線まで進めたのです。
四輪は、そこより数メートル前の停止線で停止でした。
加速力に優れる二輪車を先に出し、二輪と四輪の混在状態を改善しようという
アイデアなのでしょうが、これって、停止中の四輪の間のすり抜け推奨?
とまあ、その疑問はさておき...
ある時二段階停止線で止まった私の目に、ミラー越しに白いホンダCX(だと思った)が映ったのです。
私は信号が変わるや否や猛ダッシュ。生意気にもCXはついてきます。
なおも加速する私。
その時、大きな声が聞こえました。
「そこのZ2!あんまり飛ばしてると免許がなくなるぞ!!」と。
CXだと思ったのは、桜田さんちの若い衆でした。
後ろからついてくる二輪集団がヘルメットの中で大笑いしているような気がした私は、
すごすごと左にあったコンビニに初号機を止めて、冷や汗を拭いましたとさ。
以上昔語りその2、題して「後方確認はしっかりと!」の巻でした。
焼き直しその3
さて、好評をいただいている(と自分では思う)焼き直し記事その3です。
去年の夏に、こんな記事を書きました。
その日は今日(2020年8月16日)より涼しかったらしく、
オートバイで出かけております。
以下、焼き直しその3です。
(ご覧になった方も多いのではないでしょうか)。
その中で取り上げられなかった、私の好きなスポットを記事にしてみました。
もしかするとそこは、地元の方が大切にしていらっしゃる場所なのかも、と思うので、
場所を明確にすることは、避けたいと思います。
北印旛沼です。
ここからバイクで5分ほどに、
こんな場所があります。黒いネットは、農作物の、無人販売所です。
一番左に写っている木の向こう側のちょっとした谷に、件の湧き水があるのですが、
今日のこの場所での気温は
ご覧の通りです。日陰です。
でも、地下水って自然の恵みだなあとしみじみ思わせるのは、
湧き水の温度を測ると、外気温より20℃近く低い、15.9℃でした。
こんなところにある小さな谷に沸く水から、田んぼに水を引き入れています。
私たちは、その湧き水をおすそ分けしてもらっている、という感じなのですが、
いつ行っても水の容器を持った方でいっぱいです。
湧き水の近くに、「大地の恵みを感謝していただくように」という
看板があるのですが、本当にその通りだなあと思います。
湧き水の温度は、気温に左右されない、と言われますが、
冬場にこの水が何度になるか、また記事にしたいと思います。
以上なのですが、結局去年の冬は水温を計りに行きませんでした。
今年は必ず報告いたします。
太宰治が見た富岳三景
さて、ご好評をいただいております、過去記事の焼き直し第二弾です
(誰が好評してるんだよ!...って話は置いといて)。
以下、去年の今頃ダイアリーに書いた記事のコピペでございます
(一部加筆訂正あり)。
立秋は過ぎても、涼しくなりませんね。
私は、梗塞の再発を恐れて、バイクには半月以上乗っていません。
脳梗塞は、暑い夏の方が発症率は高いそうです。
なので、ウチの中にしかネタがない。
それで、タイトル通り、昔撮影した富士山の写真など。
太宰治が富岳百景執筆のために滞在した、山梨県の御坂峠にある天下茶屋から望む
富士山です(太宰は二階、この写真は道路際から、という違いはありますが)
同じ位置からズームレンズで撮ってみました。
写真を撮ったのは、何十年も前の5月の連休です。
積もった雪も融け始めたころです。
フレームの下にXJ400Dがいたのは今でも覚えています。
季節は違いますが、太宰はこのような場所から富士を望みつつ執筆していたのでしょう。
三枚目の写真は、甲府の町から撮ったものです。
山の向こうに、わずかに頂上が見えます。
「なんだ。甲府の町からも富士山が見えるじゃあないか。馬鹿にしていやがる」
って太宰が言った、まさにその季節(晩秋)の富士です。
いかがでしたか、富岳三景。
すこしでも山の冷気を感じていただけましたか(甲府盆地は灼熱地獄ですが)。
残暑厳しき折、くれぐれもご自愛ください。
残暑お見舞い申し上げます。
と申し上げましたが、梅雨が明けて夏が来た!と思うや否や立秋でございます。
風立ち~ぬ~、今は~~~秋~今日から私~は~こッころののた~び~人~...
とか、
暑中~~~お見舞い申し上げ~ます...
とか、
そんな歌がはやっていたころは、もっと季節にメリハリがあった気がします。
もっと秋は涼しく、春は暖か。冬は寒く、夏は暑かったと思うんですが…
あ、いえ、夏が暑かったというのは、その前後の春と秋が、暑さを際立たせているだけで、夏自体は、きっと今よりもっと涼しかった。
太陽が~沈んだら~~三菱の~ウインドファン~
毎週金曜夜八時、日本テレビのプロレス中継の合間に流れた「三菱ウインドウファン」のCMです(誰も知らないだろうなあ)。
こんな機械が売れるほど、あのころの日本の夏は
太陽が沈めば涼しかった記憶があります。
昼は暑く、時折夕立がその暑さをどこかへ連れ去り、夜には涼しい風が吹く。
そんな日本の四季は確実になくなりました。
四十年前には、夏の暑い日のアルバイト(ジーパン屋)が終わり、
YAMAHAGX250SPで夜の街を走れば、涼しいほどでした。
あ、一度だけ、タンクと身体の間に熱い空気の塊が感じられ、
「今日は変だなあ。」と思った記憶はありますが。
冬の寒さも生ぬるさを感じるし、
春は夏の露払い。
秋は夏の延長戦。
はっきり区別がついたあの頃は、もう帰ってこないのでしょう。
追記
この記事を投稿した後に思い出しました。
小学校の教科書(国語か社会のどちらかです)に、
「アラブの国々では夏になると気温が35℃を越えるので、
長袖の服を着て暑さをしのぐのだ」という記載がありました。
当時(五十年も昔です)、関東地方の最高気温が30℃を超えることは
なく、25℃を越えればニュースになるような時代でした。