お盆の帰省(実は去年の記事)
GoTo観光地!とおっしゃる方もいれば、
お盆はオンライン帰省で、とおっしゃる方もいる。
リーダーのいう事が明確でないと、私たちは迷いに迷う...
という事で、今年はおとなしく、帰省もせず千葉に居ります。
実家に1人で済む母は多分90歳(はい。親の年齢も知らない不孝ものでございます)、
万一のことがあってはいけないので、帰省は自粛です。
そこで、去年の記事を引っ張り出し、気持だけでも帰省しようかと...
以下、昨年8月15日の記事です(ちょっと加筆、訂正あり)。
昨日、横浜の実家に帰省してきました。
短時間滞在でしたが、亡父と、伯父二人、祖父、祖母(✖2)に線香をあげ、
母、弟、義理の妹、姪の顔をみて、たらふくビールを飲み、昔話をしてきたので、
それだけでもよいと思わなければ、なんですけど。
横浜には25歳の春まで両親と同居しており、
25歳の春、Z750Four初号機で千葉に来てから35年、
結局戻れませんでした。
まあ、それはさておき、
最近、横浜駅の工事がひと段落したとのこと。
西口も、地下街もきれいになりました。
私の最も古い記憶では、横浜駅の西口にはトロリーバスが走っており
(多分市営)、
ダイヤモンド地下街には、ところどころ氷柱がおいてあり、
それで涼を取っていたのです。
それもさておきましょう。
私が幼稚園の年中さん(その年の6月、雨の中を
大田区の雑色から瀬谷に引っ越してきたのです)のときには、
相鉄にはまだ、流線型の猫目の車両が走っていました。
小学校5年生の時、万世橋の「交通博物館」で、この車両の模型を見て
感動したことをおぼえていますが、いま、ネットをあさっても
見当たりません。
50年(半世紀)経ちますから、記憶と記録のかなたに消え去っていても
無理はないですね。
が、今日(2020年9月1日)、見つけました。
「相鉄ファン5000系電車」で検索すれば画像が出ると思います。
興味のある方は是非どうぞ。
横浜駅を出てすぐ、高架線を走り続ける相鉄に揺られつつ、
西谷駅で、こんな写真を撮りました。
ここを通るたびに思い出すのですが、高校二年の秋、
高校をさぼって(こら!)、奈良に一人で旅行をした帰り、
上り新幹線がここで立ち往生した時のことです(原因は忘れました)。
新幹線終点の東京まで十数分、横浜までは東京から東海道線か横須賀線で
三十分、西谷までは相鉄線で十数分。
なのに、立ち往生した新幹線からは、相鉄線が行き来するのが
眼下に見えるのです。
「学校さぼったバチだね。」はい、その通り。
返す言葉もございません。
何時間も、眼下を行き交う相鉄線の車両を見ながら、
「ああ、ここで降りたい。」と何度思っても、
できるはずがない。新幹線車両の外に出ても、この高架の下まで
出られるわけもないし…
悲しかった。
青春のほろ苦い(?アホな)思い出のひとつです。
さて、目的地瀬谷駅まであと数十秒、相沢川の上を電車は通り過ぎます。
この写真の川が相沢川です。
この川、おとなしそうに見えて、実はとんでもない暴れ川でして、
私が小学生の頃は、台風のたびに氾濫し、この写真のもう少し下流にあった
5000平方メートルほどの田んぼがすべて、一つの沼のようになったものでした。
どこから逃げてきたものか、大きな錦鯉が泳いでいたりして、すごい光景でした。
で、この写真のフレーム外になってしまう、右側には、
昔(小学校二年生の夏まで)、かの山口(今は三浦)百恵さんが、
家族で住んでいたアパートがあったというのです
(そのアパートのそばに住む、桂y子の申告による)。
この写真が、駅から私の自宅へ向かうときに通る、
件のアパートがあった路地を眺めた写真です。
横道にそれました(話が)。
上りホームと下りホームが踏切で結ばれているという、
今では考えらえれないほどのんびりした田舎の駅でした
(下りホームには立ち食い蕎麦屋もあった)。
それが今ではこうです。
立派な二面四線(これは昔からだったかも?)の駅になり、何もなかった北口
(写真左手)には大きなビルが…
あ、何もなかった北口というのは四十年位前までの話で、
ロケ地となった八千代信用金庫の建物があったことは確かです。
さて、私の相鉄線の(帰省)旅も、瀬谷で終了です。
この後、南口まで迎えに来てくれていた弟の車で、
実家へ。ビールたくさんと、日本酒すこしを飲み、
短い帰省は終了したのでした。
と、以上が昨年の記事でお茶を濁す作戦一号でした。失礼しました。