還暦過ぎの750乗りだった年寄りの日記。

平成のおわりと、ほぼ時を同じくして定年を迎えました。愛機Z750Fourのこと、趣味のこと、日々の出来事や思い出話を徒然なるままに記していきます。

おめでとうございます。

誰って、池江選手です。

 

あの病気にり患したと聞いた時、

不謹慎かもしれませんが、命があればいい、と思ったのは事実です。

 

まさかあそこまで復活なさるなんて、思いもよりませんでした。

池江選手には失礼なことは重々承知の上です。

 

ですが、いまから三十年ほど昔、

同じ病気にり患した、担任していた生徒を見送った私としては

奇跡(じゃないな)と池江選手の努力精神力に対して

「おめでとうございます」としか言葉は出ません。

 

本当に凡人には想像もつかない精神力と努力のたまものなんだろうなあ、

という事だけは確かなのでしょう。

たぶん幻になってしまうであろう2011年の五輪代表選手選出

本当におめでとうございます。

その努力を五輪開催に無理やり結びつけようという

不純な人たちがいることは、本当に悲しく情けないことです。

 

彼女(池江選手)の頭にはきっと東京五輪」なんて

これっぽちもなかった。

復活して水泳に全力を注ぎたい。

それだけだったと思うのは私だけでしょうか。

 

焼き直し記事(もう何弾か忘れてしまった)

私、今は千葉に住んでいますが、25歳まで横浜に住んでいました。

出身高校は横浜市立桜丘高校といいます。

 

この高校、のんびりした校風が特徴だったのですが、もう一つ、特徴がありました。

当時、神奈川県の夏の高校野球の決勝戦は、県立保土ヶ球場で行われていたのですが、

私の母校、市立桜丘高校(ああ、めんどくさい。ごめんさい。以下桜高)は、

その保土ヶ谷球場の直近の公立高校だったのです。

私が知ったのは、入学後でしたが、同級、あるいは一つ二つ下の女子には

意外と知られていたようです(あくまでも同級のオバカ男子の間での噂です)。

特徴というのは、その保土ヶ谷球場高校野球の試合が行われるときには、

我が桜高の生徒がスコアボード係やウグイス譲を務めるということです。

これは、当時の県高野連の偉いさんであったT先生が

桜高の国語科の先生だったことも関係があると思います(就職して十年近く経って、

千葉県でこの先生の名前を聞くことになるのですが、それはまた、別の話)。

実際、私たちにも、高校一年生の時、T先生から

「夏休みにアルバイトしない?保土ヶ谷球場のスコアボード係なんだけど」

というお声が掛かりました。

男子はスコアボード、では、女子は?

 

はい。ウグイス譲ですね。

 

さて、当時私の同学年の高校生には、日本中で有名な三人の人物がいました。

一人は三浦(山口)百恵さん。

二人目は原辰徳さん。

三人目は、山田詠美(この時は存在も知らなかったしただの無名の高校生でした)。

 

百恵さんや山田詠美(なぜ呼び捨て?それはまたいつか。)は別の話として、

原辰徳さん(現巨人軍監督)は、東海大相模高校出身ですよね。

私が高校時代神奈川県では、東海大相模が圧倒的な強さを誇っていました。

そしてその中で人気を博していたのは、原辰徳さんです。

その原辰徳さんの名前を、球場で呼ぶことができるのが、

我が桜高の女子生徒の(中の何人かの)特権だったのです。

 

とにかく、日ごろは閑散としている保土ヶ谷球場ですが、

東海大相模の試合があるときは、女子高校生が駐車場までいっぱいになるほど。

それで、原辰徳さんが在学中には、我が桜高には女子の受験者が増加した、

という、これはまあオバカ男子生徒の間のただの噂ですけど。

インターネットもない時代に、どうしてそんなことを女子中学生や女子高校生が知っていたのだろう。

落ち着いて考えてみれば、本当にただの噂だったのかもしれません。

 

よし、今度の同窓会(八年後に開催予定らしい)で、女子に聞いてみよう。

 

あ、原辰徳さんが甲子園に出場した時、NHKのアナウンサーが

学校名を「とうかいおおずもう」と間違えて読んだ、というのも

遠い昔の噂話です。あしからず。

 

あれから二十年かあ...

またも年寄りの愚にもつかない繰り言でございます。

 

西暦2000年から始まった(らしい←wikiによる)NHKのこの番組、今になって

NHKのBSで再放送が始まりました。

もっとも、当時のフィルムをリストアだか何だかして

画像を4K(←何それ)レベルにしたものをBSプレミアムで再放送すると、
今日知りました。

 

そんなことは(私には)どうでもいいんです。

当時(20年前)、この番組を観ながらお酒を飲んで、

エンディングに流れる「ヘッドライトテールライト」を聴いていると
気が付くと、目じりからは涙がツツツーっと。

 

嗚咽を漏らしながら泣くようなことはなく、毎回観終わり気づいたら涙が流れていた、

という不思議な感動の仕方を繰り返したものでした。

 

いま、その再放送を見ると、初代アシスタントのクボジュンも国井アナも

若かったあ(多分自分もね)。

 

そんな「プロジェクトX」ですが、不満もあります。

『なんで「DATSUNフェアレディZ」が取り上げられているのに、

「 KAWASAKI 900Super4(俗にいうZ1です)と750RS(俗にいうZ2です)」を

取り上げないんじゃあ!』というのが最たるものですが、

それはあくまでも私憤として忘れてください。

 

今日の放送を見ていて驚いたのは、歴史作家としてその名を馳せた

新田次郎』先生が、気象庁に勤務していたころの画像が

流れたことです。

 

新田次郎』先生と言えば、『武田信玄』『武田勝頼』『富士山頂』で

有名だった方です。富士山頂レーダーの建設に携わっておられたことは

なんとなく存じておりました。

 

もう鬼籍に入られて何年でしょう。

 

その方の気象庁勤務当時の画像、退職され作家として活躍されていた

頃の映像が流れた、というだけでも大変なものです。

 

タイトルに「プロジェクトx」とかいう言葉を入れると、

アクセス数が訳も分からず跳ね上がるので、

変なタイトルですみません。

 

これからもプロジェクトXネタは続きます。

 

ふるさと広場のチューリップもほころび始め、

週末の国道296号線は混雑し始めたのですが、

ひっ迫した千葉の病床の状態を少しでも悪化させたくないので、

しばらくオートバイはお預けの私でございます。

 

 

 

昔々その昔、椎の木林のすぐそばに

という出だしの歌、小学校の時昼の給食の時間に

よく流れていた記憶があります(昭和四十年代のことです)。

まあ、この唱歌って、杉の木を植えなさいってことですよね。

広葉樹よりなにより、成長の早い針葉樹を植えなさい、ってことだと思うのは

私だけでしょうか。

 

私的な歴史観として、戦争が終わった昭和二十年から四十年代って

まだ、戦後の復興期だったと思うのです。

その復興のために、木が必要だった時代のことです。

 

当時私が住んでいたのは横浜市の西のはずれでしたが、

一応横浜市です。

なのに、中学校に入学する昭和五十年ころまで、駅や小学校に行くのに、

雨の日には長靴が必須でした(市道が舗装されていなかったという事です)。

小学生は長靴必須、中学生になるとちょっと洒落っ気が出て「レインブーツ」

なるものが必須だった昭和四十年代のお話です。

道路だけでなく、小学校では二部授業が行われていました。

午前中は低学年、午後は高学年と、一つの教室を二つのクラスが使う、という、

戦後の教室不足に対応するための、苦肉の策だったと思います。

 

さて、やっと本題です。

前述の通り当時はまだ林業が盛んで、森または山の広葉樹を切って杉とかヒノキを

植えていた時代だったと思います。まさに、戦後の植林政策真っ盛りの頃です。

私は小学校の夏休みごとに、両親の実家である山梨県でその大半を過ごしていたことは

以前記事にしました。

 

そんな山梨県での夏休み(以下は春休みの記憶かもしれません)のことです。

伯父一家(まだ祖父母も健在でした)総出で、植林に行った記憶があります。

 

山梨の母の実家(私も弟もここで生まれました)での夏休みの記憶。

一日の始まりは朝七時ころ、村の衆数名が伯父の家の堀ごたつに集まって

掌に乗せた白砂糖一つまみと甲州梅(カリカリの、小さいやつです)を

舐めながらお茶を飲み、世間話をしているところから始まります。

 

まだ覚えている、その中の一人(とっくに亡くなってます)のことば。

「おらあ、せんころ…」(東京弁訳。「私は先日…)で始まるたあいもない話。

以下は覚えてないのですが、そんな愚にもつかない話をしてはお茶を飲み、

梅干しと砂糖をなめていたあの人たちは、実は夜明けとともに畑仕事を終えて

私の実家に集まり一休みしていたのだろうと気づいたのはこの数年のことです。

 

お茶を飲んで一服し、朝ご飯を食べたら向かうのは山です。

祖父が持っていた山(というか森)は幅30メートルくらい、長さ50メートル位の

小さなものでした。

 

でも、小さいとはいえそこに生えていた木を切り、杉を植えるのは結構な手間が

かかります。

祖父や伯父が木を切り倒し、そこに新しい杉だかヒノキだかの苗を植える、という事を

一日続けるのですが、私たち子どもが楽しみにしていたのは何と言っても視界の開けた森で食べるお昼ご飯でした。

 

沢で汲んだ水でお湯を沸かし、お茶を飲みながら白いご飯のおにぎりと

きゅうりのQちゃんだけのお昼ご飯です。

当時はアウトドアなんて言う言葉はなく、野良仕事の合間に森でおにぎりを食べた、

というだけのことですが、その当時の記憶が、キャンプ好きなDNAとして

組み込まれたのかもしれません(ああ、何年もキャンプしてないなあ)。

 

何十年も昔に私が植えた杉の木(ヒノキかも)の花粉が、ただいま現在、

私も含めた多くの皆さんの春先の悩みになっているのかもしれない、

と思うと、本当に申し訳なく思います。

 

さて高校受験の次女、大学受験の長女とも、希望する進学先が決まったようで、

オートバイ断ちもそろそろ解除していいかな、と考えている年寄りの、

いつもの(愚にもつかない)思い出話でございました。

今年はどうなんだろう

って、佐倉チューリップ祭のことです。

 

それは、佐倉市の観光資源のひとつであり、

夏の印旛沼花火大会

秋のコスモス畑

と並んで、稼ぎ時なんですよね。

でも、去年はコロナ禍の中人が多く集まりすぎたので

満開のチューリップを掘り返してしまうという

乱暴なことをせざるを得なかったのは致し方ないとしても、

たしかに満開のチューリップは見甲斐があります。

 

f:id:piroji1616:20210302133757j:plain

去年の写真です。

向こうに見える崖は、この写真を撮ってしばらくしてヤギで有名になったところです。

 

さて、もうすぐ佐倉市は桜市になります。

市役所も京成本線の駅にも桜の文字が舞います。

 

f:id:piroji1616:20210302134252j:plain

市役所

f:id:piroji1616:20210302134706j:plain

京成佐倉駅北口

でも、私が思うに、あまり桜が多い佐倉市でもないと思うんですよね。

 

...あ、そうでもなかった...

f:id:piroji1616:20210302141224j:plain

ふるさと広場の駐車場から

ふるさと広場そばの、印旛沼沿いのサイクリングロードに佐倉城址、臼井城址

師戸城址と、結構桜の名所はあります。

 

ちなみに、私が読者登録をしている埼玉県在住の「小売り50」さんは、

kouri50.hatenablog.com

印旛沼周辺とこの風車小屋のあるふるさと広場が、ずいぶんお気に入りの様子。

 

f:id:piroji1616:20210302135430j:plain

ふるさと広場です。

このあたりはもともと印旛沼干拓して生まれた農地だと考えてください。

台風の時にはかなり浸水被害が出ます。

kouri50.hatenablog.com


 この記事で小売りさんがマグナさんを停めていたあたりは、ちょっとした大雨で

水没してしまいます。

ただ、普通の天気であれば本当に景色の良い場所ですし、

夏の花火大会の日など、最高の場所です。

満月の頃の月の出もきれいです。

 

と、まあ今日の印旛沼観光大使の勤めはこれくらいで充分かな、と。

そうそう、印旛沼近くの、京成臼井駅から徒歩40分の住宅街なら、新築で土地60坪、

建物40坪ほどで、月々三万円以下の物件が多数あります。

 

オートバイ断ちをしているもので、毎度毎度つまらない事ばっかり書いていて

本当にすみません...…

 

 

にほんブログ村 バイクブログ 関東バイクライフへ
にほんブログ村 ブログランキング・にほんブログ村へ

今日は亡父の誕生日

でして、この父親、昭和二年生まれの双子の兄なんです。

若いころは京浜急行に勤務しており、二日に一度は夜勤明けに

帰ってきて、私が幼稚園から帰ってくると部屋で布団に入って

新聞を読んでいたのを覚えております。

その後小さな運送会社に勤務していたのですが、

五十いくつかの時、結構重い脳梗塞を患い、半身の自由が

ほぼきかないまま更に十数年後、二度目の脳梗塞を発症。

車いす生活になりました。

そして今からちょうど十年前の12月31日、誤飲性の肺炎を起こして入院している最中に

三度目の脳梗塞を発症。1月4日、亡くなりました。

で、名前の話なんですよ。

 

父は双子の兄で昭雄(てるお、と読みます)。

双子の弟の方は和雄(かずお、です)。

父親が生きている時には聞けなかったのですが、

これって「昭和」ですよね。

誰がどんな茶目っ気があってこんな名前を付けたのか。

 

祖父母は何十年も前に他界しており叔父たちも全滅。

誰にも確かめようがないのが残念です。

 

和雄おじの葬儀の時、遺影と同じ顔(私の父ね)が

親族の席に座っているのを見た双子だと知らない参列客の方が

一瞬凍り付いた’(ように見えた)のは、不謹慎な冗談として

ここだけの話にしておいてください。

 

 

 

 

受験では何が起こるかわからない

この時期、大学入試の合格発表が目白押しですね。

 

私が受験をしたころは、オンライン発表だのメールだのラインだのは当然存在せず、

合格発表は大学構内の大きな掲示板に合格者の受験番号を張り出す、という

アナクロな方法で行われていました。

 

地方の受験生はどうするのか。って?

自分の(もしかしたら不)合格発表のために遠くから

大学まで出向くなんて言う事は致しません。

当然、合格者には入学手続き関係の書類が入った

封筒が送られるのですが、何日か待たなければなりません。

 

私は東京大学(私立ですよ)を受験した、甲府に住む従妹のために

合格発表(一校は不合格発表でしたが)を見に行ったことがあります。

 

まあ、誰もが自分の受験校の近くに親戚が住んでいるわけではありません。

そんな大学から遠く離れたところに住む受験生のために

合格電報なるシステムが存在していました。

入試当日、学校の正門の近くで自分の受験番号と住所を合格電報屋に教え、

代金を支払うと発表当日、代わりに掲示板を見て結果を電報で送ってくれる、

というシステムです。

大学当局は当然関係しておらず、代金を払ったのに何も通知がないというトラブルも

多かったようで、電報屋の近くには

「合格電報は本学とは関係ありません」という張り紙が貼ってありました。

今のようにオンラインで合否がわかるなんていう時代が来るとは

夢にも思っていませんでした。

 

自分の受験番号を掲示板で見つけたときの嬉しさというのは

何とも言えません(と言っても見つけたのは二年間で二回だけだったんですが)。

合格発表の掲示板の近くには、臨時に設置された公衆電話が何台もあったことも

今は昔のお話です。

まあ、それはさておいて、標題の件です。

 

私の高校時代の友人は、二人、補欠合格で大学に進学しております。

一人は詳細を聴いていないのですが、もう一人のHは、現役時代受験校が全滅し、

「一緒に浪人しようぜ」と話をしながら高校の卒業式からHの家に向かい

玄関を開けたときのことでした。

Hのお母さんが「補欠合格の通知が来ているわよ」とHに声をかけたのです。

Hは狂喜乱舞。

一緒に浪人しようぜ、という約束は泡と消えたのでした。

 

私がB大学に入学し、最初のHR(というか、文学部文学科日文専攻Aの最初の

顔合わせ)のとき、順番に名前を呼ばれ点呼をとるのですが、返事がない

(出席していない)学生が何人かいました。

その時クラスの何か所からか「A大に補欠合格したんだ」という声が漏れてきました。

私もきっとそうなんだろうな、と思います。

名簿に名前が載っていて、でも出席していないという事は入学金、授業料を払いながら

他大学へ行ったのだろうという事は簡単に想像できます。

結構補欠で繰り上げ合格してるんだなあ、と思いつつ、

なんで自分のところには...と思ったものです。

 

私が就職して四年目、最初に担任した生徒が卒業した年のこと。

優秀だったツートップのうち一人Tは第一志望のC大学薬学部に不合格になって

浪人を覚悟していました。

駿台予備校に入学金まで振り込んでいたのです。

ところが、三月も下旬になってC大学から補欠合格の通知が来たのです。

 

結局、補欠繰り上げ合格って結構あるんだなあ、と思いますし、

標題の通り、来年度が始まるまで受験では何が起こるかわからない、というのが

本日の繰り言でございました。

 

受験生諸君、四月一日まで、受験には何があるかわかりませんよ。