還暦過ぎの750乗りだった年寄りの日記。

平成のおわりと、ほぼ時を同じくして定年を迎えました。愛機Z750Fourのこと、趣味のこと、日々の出来事や思い出話を徒然なるままに記していきます。

あれから二十年かあ...

またも年寄りの愚にもつかない繰り言でございます。

 

西暦2000年から始まった(らしい←wikiによる)NHKのこの番組、今になって

NHKのBSで再放送が始まりました。

もっとも、当時のフィルムをリストアだか何だかして

画像を4K(←何それ)レベルにしたものをBSプレミアムで再放送すると、
今日知りました。

 

そんなことは(私には)どうでもいいんです。

当時(20年前)、この番組を観ながらお酒を飲んで、

エンディングに流れる「ヘッドライトテールライト」を聴いていると
気が付くと、目じりからは涙がツツツーっと。

 

嗚咽を漏らしながら泣くようなことはなく、毎回観終わり気づいたら涙が流れていた、

という不思議な感動の仕方を繰り返したものでした。

 

いま、その再放送を見ると、初代アシスタントのクボジュンも国井アナも

若かったあ(多分自分もね)。

 

そんな「プロジェクトX」ですが、不満もあります。

『なんで「DATSUNフェアレディZ」が取り上げられているのに、

「 KAWASAKI 900Super4(俗にいうZ1です)と750RS(俗にいうZ2です)」を

取り上げないんじゃあ!』というのが最たるものですが、

それはあくまでも私憤として忘れてください。

 

今日の放送を見ていて驚いたのは、歴史作家としてその名を馳せた

新田次郎』先生が、気象庁に勤務していたころの画像が

流れたことです。

 

新田次郎』先生と言えば、『武田信玄』『武田勝頼』『富士山頂』で

有名だった方です。富士山頂レーダーの建設に携わっておられたことは

なんとなく存じておりました。

 

もう鬼籍に入られて何年でしょう。

 

その方の気象庁勤務当時の画像、退職され作家として活躍されていた

頃の映像が流れた、というだけでも大変なものです。

 

タイトルに「プロジェクトx」とかいう言葉を入れると、

アクセス数が訳も分からず跳ね上がるので、

変なタイトルですみません。

 

これからもプロジェクトXネタは続きます。

 

ふるさと広場のチューリップもほころび始め、

週末の国道296号線は混雑し始めたのですが、

ひっ迫した千葉の病床の状態を少しでも悪化させたくないので、

しばらくオートバイはお預けの私でございます。

 

 

 

昔々その昔、椎の木林のすぐそばに

という出だしの歌、小学校の時昼の給食の時間に

よく流れていた記憶があります(昭和四十年代のことです)。

まあ、この唱歌って、杉の木を植えなさいってことですよね。

広葉樹よりなにより、成長の早い針葉樹を植えなさい、ってことだと思うのは

私だけでしょうか。

 

私的な歴史観として、戦争が終わった昭和二十年から四十年代って

まだ、戦後の復興期だったと思うのです。

その復興のために、木が必要だった時代のことです。

 

当時私が住んでいたのは横浜市の西のはずれでしたが、

一応横浜市です。

なのに、中学校に入学する昭和五十年ころまで、駅や小学校に行くのに、

雨の日には長靴が必須でした(市道が舗装されていなかったという事です)。

小学生は長靴必須、中学生になるとちょっと洒落っ気が出て「レインブーツ」

なるものが必須だった昭和四十年代のお話です。

道路だけでなく、小学校では二部授業が行われていました。

午前中は低学年、午後は高学年と、一つの教室を二つのクラスが使う、という、

戦後の教室不足に対応するための、苦肉の策だったと思います。

 

さて、やっと本題です。

前述の通り当時はまだ林業が盛んで、森または山の広葉樹を切って杉とかヒノキを

植えていた時代だったと思います。まさに、戦後の植林政策真っ盛りの頃です。

私は小学校の夏休みごとに、両親の実家である山梨県でその大半を過ごしていたことは

以前記事にしました。

 

そんな山梨県での夏休み(以下は春休みの記憶かもしれません)のことです。

伯父一家(まだ祖父母も健在でした)総出で、植林に行った記憶があります。

 

山梨の母の実家(私も弟もここで生まれました)での夏休みの記憶。

一日の始まりは朝七時ころ、村の衆数名が伯父の家の堀ごたつに集まって

掌に乗せた白砂糖一つまみと甲州梅(カリカリの、小さいやつです)を

舐めながらお茶を飲み、世間話をしているところから始まります。

 

まだ覚えている、その中の一人(とっくに亡くなってます)のことば。

「おらあ、せんころ…」(東京弁訳。「私は先日…)で始まるたあいもない話。

以下は覚えてないのですが、そんな愚にもつかない話をしてはお茶を飲み、

梅干しと砂糖をなめていたあの人たちは、実は夜明けとともに畑仕事を終えて

私の実家に集まり一休みしていたのだろうと気づいたのはこの数年のことです。

 

お茶を飲んで一服し、朝ご飯を食べたら向かうのは山です。

祖父が持っていた山(というか森)は幅30メートルくらい、長さ50メートル位の

小さなものでした。

 

でも、小さいとはいえそこに生えていた木を切り、杉を植えるのは結構な手間が

かかります。

祖父や伯父が木を切り倒し、そこに新しい杉だかヒノキだかの苗を植える、という事を

一日続けるのですが、私たち子どもが楽しみにしていたのは何と言っても視界の開けた森で食べるお昼ご飯でした。

 

沢で汲んだ水でお湯を沸かし、お茶を飲みながら白いご飯のおにぎりと

きゅうりのQちゃんだけのお昼ご飯です。

当時はアウトドアなんて言う言葉はなく、野良仕事の合間に森でおにぎりを食べた、

というだけのことですが、その当時の記憶が、キャンプ好きなDNAとして

組み込まれたのかもしれません(ああ、何年もキャンプしてないなあ)。

 

何十年も昔に私が植えた杉の木(ヒノキかも)の花粉が、ただいま現在、

私も含めた多くの皆さんの春先の悩みになっているのかもしれない、

と思うと、本当に申し訳なく思います。

 

さて高校受験の次女、大学受験の長女とも、希望する進学先が決まったようで、

オートバイ断ちもそろそろ解除していいかな、と考えている年寄りの、

いつもの(愚にもつかない)思い出話でございました。

今年はどうなんだろう

って、佐倉チューリップ祭のことです。

 

それは、佐倉市の観光資源のひとつであり、

夏の印旛沼花火大会

秋のコスモス畑

と並んで、稼ぎ時なんですよね。

でも、去年はコロナ禍の中人が多く集まりすぎたので

満開のチューリップを掘り返してしまうという

乱暴なことをせざるを得なかったのは致し方ないとしても、

たしかに満開のチューリップは見甲斐があります。

 

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去年の写真です。

向こうに見える崖は、この写真を撮ってしばらくしてヤギで有名になったところです。

 

さて、もうすぐ佐倉市は桜市になります。

市役所も京成本線の駅にも桜の文字が舞います。

 

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市役所

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京成佐倉駅北口

でも、私が思うに、あまり桜が多い佐倉市でもないと思うんですよね。

 

...あ、そうでもなかった...

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ふるさと広場の駐車場から

ふるさと広場そばの、印旛沼沿いのサイクリングロードに佐倉城址、臼井城址

師戸城址と、結構桜の名所はあります。

 

ちなみに、私が読者登録をしている埼玉県在住の「小売り50」さんは、

kouri50.hatenablog.com

印旛沼周辺とこの風車小屋のあるふるさと広場が、ずいぶんお気に入りの様子。

 

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ふるさと広場です。

このあたりはもともと印旛沼干拓して生まれた農地だと考えてください。

台風の時にはかなり浸水被害が出ます。

kouri50.hatenablog.com


 この記事で小売りさんがマグナさんを停めていたあたりは、ちょっとした大雨で

水没してしまいます。

ただ、普通の天気であれば本当に景色の良い場所ですし、

夏の花火大会の日など、最高の場所です。

満月の頃の月の出もきれいです。

 

と、まあ今日の印旛沼観光大使の勤めはこれくらいで充分かな、と。

そうそう、印旛沼近くの、京成臼井駅から徒歩40分の住宅街なら、新築で土地60坪、

建物40坪ほどで、月々三万円以下の物件が多数あります。

 

オートバイ断ちをしているもので、毎度毎度つまらない事ばっかり書いていて

本当にすみません...…

 

 

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今日は亡父の誕生日

でして、この父親、昭和二年生まれの双子の兄なんです。

若いころは京浜急行に勤務しており、二日に一度は夜勤明けに

帰ってきて、私が幼稚園から帰ってくると部屋で布団に入って

新聞を読んでいたのを覚えております。

その後小さな運送会社に勤務していたのですが、

五十いくつかの時、結構重い脳梗塞を患い、半身の自由が

ほぼきかないまま更に十数年後、二度目の脳梗塞を発症。

車いす生活になりました。

そして今からちょうど十年前の12月31日、誤飲性の肺炎を起こして入院している最中に

三度目の脳梗塞を発症。1月4日、亡くなりました。

で、名前の話なんですよ。

 

父は双子の兄で昭雄(てるお、と読みます)。

双子の弟の方は和雄(かずお、です)。

父親が生きている時には聞けなかったのですが、

これって「昭和」ですよね。

誰がどんな茶目っ気があってこんな名前を付けたのか。

 

祖父母は何十年も前に他界しており叔父たちも全滅。

誰にも確かめようがないのが残念です。

 

和雄おじの葬儀の時、遺影と同じ顔(私の父ね)が

親族の席に座っているのを見た双子だと知らない参列客の方が

一瞬凍り付いた’(ように見えた)のは、不謹慎な冗談として

ここだけの話にしておいてください。

 

 

 

 

受験では何が起こるかわからない

この時期、大学入試の合格発表が目白押しですね。

 

私が受験をしたころは、オンライン発表だのメールだのラインだのは当然存在せず、

合格発表は大学構内の大きな掲示板に合格者の受験番号を張り出す、という

アナクロな方法で行われていました。

 

地方の受験生はどうするのか。って?

自分の(もしかしたら不)合格発表のために遠くから

大学まで出向くなんて言う事は致しません。

当然、合格者には入学手続き関係の書類が入った

封筒が送られるのですが、何日か待たなければなりません。

 

私は東京大学(私立ですよ)を受験した、甲府に住む従妹のために

合格発表(一校は不合格発表でしたが)を見に行ったことがあります。

 

まあ、誰もが自分の受験校の近くに親戚が住んでいるわけではありません。

そんな大学から遠く離れたところに住む受験生のために

合格電報なるシステムが存在していました。

入試当日、学校の正門の近くで自分の受験番号と住所を合格電報屋に教え、

代金を支払うと発表当日、代わりに掲示板を見て結果を電報で送ってくれる、

というシステムです。

大学当局は当然関係しておらず、代金を払ったのに何も通知がないというトラブルも

多かったようで、電報屋の近くには

「合格電報は本学とは関係ありません」という張り紙が貼ってありました。

今のようにオンラインで合否がわかるなんていう時代が来るとは

夢にも思っていませんでした。

 

自分の受験番号を掲示板で見つけたときの嬉しさというのは

何とも言えません(と言っても見つけたのは二年間で二回だけだったんですが)。

合格発表の掲示板の近くには、臨時に設置された公衆電話が何台もあったことも

今は昔のお話です。

まあ、それはさておいて、標題の件です。

 

私の高校時代の友人は、二人、補欠合格で大学に進学しております。

一人は詳細を聴いていないのですが、もう一人のHは、現役時代受験校が全滅し、

「一緒に浪人しようぜ」と話をしながら高校の卒業式からHの家に向かい

玄関を開けたときのことでした。

Hのお母さんが「補欠合格の通知が来ているわよ」とHに声をかけたのです。

Hは狂喜乱舞。

一緒に浪人しようぜ、という約束は泡と消えたのでした。

 

私がB大学に入学し、最初のHR(というか、文学部文学科日文専攻Aの最初の

顔合わせ)のとき、順番に名前を呼ばれ点呼をとるのですが、返事がない

(出席していない)学生が何人かいました。

その時クラスの何か所からか「A大に補欠合格したんだ」という声が漏れてきました。

私もきっとそうなんだろうな、と思います。

名簿に名前が載っていて、でも出席していないという事は入学金、授業料を払いながら

他大学へ行ったのだろうという事は簡単に想像できます。

結構補欠で繰り上げ合格してるんだなあ、と思いつつ、

なんで自分のところには...と思ったものです。

 

私が就職して四年目、最初に担任した生徒が卒業した年のこと。

優秀だったツートップのうち一人Tは第一志望のC大学薬学部に不合格になって

浪人を覚悟していました。

駿台予備校に入学金まで振り込んでいたのです。

ところが、三月も下旬になってC大学から補欠合格の通知が来たのです。

 

結局、補欠繰り上げ合格って結構あるんだなあ、と思いますし、

標題の通り、来年度が始まるまで受験では何が起こるかわからない、というのが

本日の繰り言でございました。

 

受験生諸君、四月一日まで、受験には何があるかわかりませんよ。

 

 

 

受験は運だ!

だから勉強なんかしないで神社めぐり、パワースポットめぐりをして、

毎朝夕念仏を唱え、部屋にはお札を貼り、学業成就の御守りをすべての持ち物に

ぶら下げなさい。

そうすれば憧れのあの学校に合格できます!

 

と、いう事ではなくて、

 

ある程度のレベルまで学力が達している受験生の運命を左右するのは

最後は運が関わっているのではないか、という事です。

 

就職して何年かたち、生徒の受験指導のために大学の過去問題を

何十年分か解いている中で明らかになったのは、大学入試問題では過去問題の

使いまわしをすることがよくある、という事です。

勿論、同じ大学の同じ学部の問題を使いまわすことはまずありません。

でも、同じ系統の学部でも他大学の過去問題を使う事なんて、ざらです。

 

私が受験は運だ(最後は運が関わっている)と考えるのは、

そういう事なんです。

 

私の経験をお話します。

すべて事実です。

 

現役時代の大学受験にすべて失敗した私は、高校の友人Kと

高田馬場にある某予備校に通っていました。

Kとは、小学校から同窓でなぜかウマが合いました。

 

そのKの家に浪人生活中の夏、遊びに行った時のことです。

Kの第一志望B大学法学部の赤本を目にした私は、それを見せてもらいました。

見せてもらったのは英語の問題です。

私は英語の勉強が嫌いで、当然成績もよくなかったので、B大学の看板学部の

英語の試験問題はどんなに難しいのだろう、というお気楽な好奇心からです。

 

ちなみに、私の第一志望だったA大学では、

入試が終わって校舎を出ると、その日の試験の模範解答と解説、予想得点を

予備校の教職員の方が無料で配っておりました(その仕組みは今日は省略)。

なので、受験終了後数十分で自分の合否が予想がつく、という

嬉しくも残酷な仕組みがありました。

A大学の入試には基準点というものがあり、英語が24点(50点満点)、

国語が22点(50点満点)に満たない受験生の答案は、

採点してくれないのです。

 

現役の時には、予備校の教職員が配っていた模範解答と予想配点を

大学近くの喫茶店で一服しながら(こらこら)確認して、浪人を覚悟しました。

英語が2点、基準点に満たなかったのです。

 

で、過去問題の話に戻ります。

Kの家でB大学法学部の英語の過去問題を見た私は

意外に簡単なのでビックリしました。

「この世界にテレビジョンというものが発明されたとき、

世の多くの大人たちは、当然この機械を見ることは

酒やたばこ、セックスと同じように子供たちには禁止されるだろうと

思っていた。しかし現実はそうならず...」

という文章でした。

五十年近く経っても内容の一部は鮮明に記憶に残っています。

 

ちょっと端折ります。

 

浪人時代はA大学の第一文学部、第二文学部、教育学部と、

とにかくA大学に入りたくて複数学部を受験したのですが、

第一文学部と教育学部は英語が原因で玉砕しました。

最後に残った第二文学部の試験も、国語と日本史は楽勝でした。

 

で、問題の英語です。

 

試験問題を見た私はわが目を疑いました。

夏休みにKの家で見たB大学法学部の英語の問題と同じ文章が

使われているじゃないですか。

 

試験が終わった直後の大学近くの喫茶店またも一服しながら(おい!)、

件の予備校作成の模範解答と予想問題で合格を確信しました。

 

合格発表の日、(若い人はもうご存じないであろう)掲示板に

自分の受験番号を見たときは「運がよかったなあ」と

しみじみ思ったものです。

 

結局私はB大学の文学部に進学したのですが、

B大学文学部の英語の問題はすべて選択問題。

マークカードなど無い時代ですから、

一センチ角のマス目の回答欄から、正解と思われる升を埋めていくという

今では考えられない試験形式でした。

 

自分で説いた問題は多分三割程度。

あとは、解答用紙のマス目がきれいな模様になるように

適当に埋めて試験会場を後にしました。

なぜか結果は合格。

 

夢に見るほど行きたかった(本当に夢を見たことがあります)

A大学ですが、結局B大学に進学しました。

留年したことも五十年もたてばいい思い出です。

 

結局私は運の良さでしか大学に合格できなかったのだと思えて仕方ありません。

 

実力を蓄えた上に運の良さが、大学入試の結果を

左右するのではないかと思いつつ、

まだ結果が出ていない長女の大学入試に決着がつくまでは

オートバイ断ちをしようと考えている馬鹿な親でした。

 

 

 

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昔むかあし...

今から四十年近く昔の話です。

 

これを読んでくださっている多くの皆さんが生まれるか生まれないかの頃のお話です。

そうでもない!

とか、

自分が生まれる数(十)年前だ‼

とか、いろんな声はあるでしょうが、

それはさておき。

 

一年浪人して入学した大学で一年留年し、

一年就職浪人していたころ、私の意識の向かう先は就職することと、

オートバイのことでした。

 

21歳の夏、車で北海道を旅した私はその旅がきっかけで

オートバイにのめりこむようになったのでした。

 

いろいろ紆余曲折の末(そうでもなかった)、大型自動二輪免許を手に入れ、

就職したら、YAMAHAのXS650Spを手に入れようと考えていたのでした。

それがどこでどう間違ったのか、KAWASAKIのZ750FFOURを買ってしまったのです。

いいオートバイでした。

スタイルも音も、(当時にしてみれば)パワーも、価格も(車検が二年ついて

29万円也)。

北は北海道から南は四国までいろんなところを走りました。

 

ただ、(当時の免許制度も関係していましたが)世間的には人気がなく、

横浜の丸富オートさんの某販売店のガレージの奥の方に埃をかぶっていたのです。

「車検2年つけるから29万で持ってってよ」という店員さんの言葉は

四十年経っても忘れられません。

 

結局手放してしまったZ750FOUR初号機に代わり、

今は色違いのZ750FOUR弐号機に乗っているわけですが、

その初号機の納車の日が2月18日だった、というあまり意味のない

暇つぶしの記事でございました。

 

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この二枚しか写真がないのですが、納車の日です。 


 

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どれも使いまわしの写真で、すみません。

ちなみに、ここは横浜です。

納車の前日は数十年ぶりとかの大雪でした。

帰宅したらエンジンもマフラーも下回りも、泥だらけでした。

 

多分今のZ750FOUR弐号機が最後までお付き合いすることになる

大型二輪だと思います。

 

つまらないつぶやきにお付き合いいただき、ありがとうございました。

もう少し暖かくなり、コロナの感染状況が好転したらどこかに走りに行きたいなあ...

 

 

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